🩰9、バレエ小説、グラン・ジュッテ

その25

 それを見た凜もさすがにまずいと感じ、襟を正すような気持ちで
「やります!やらせて下さい!」
と言って、板付きした。
 最初のスローな曲に合わせて腕を大きく動かし、上体もそれに合わせて緩やかに動かした。最初のピケで右足を大きく前に出して、その先に立つ。左手のアンオーも大きく使って華やかにアラセゴンに降ろしてくる。いつもやっている動き、でも、さっきのナナ先生からの一撃で何かが変わった。いつもより力が抜ける感じがする。それでいて床も使えるようだった。
不思議な感覚。
凜は自分の感覚が自分のではないような錯覚に陥った。いつもよりも腰の位置が高く、それでいて腰から先の脚が遠くに使えるような感覚。またしても初めての感覚だった。それに伴って表情もほぐれていく。もっと、遠くへ、もっと自由に!グランパドシャの時には凜の身体は舞い上がるようだった。

「あ!あのコンクールの時よりも更に軽い!」

感覚が明らかに変わったのを感じた。
最後のピケ・アンデダーンでのマネージュも気を抜かないよう遠くへ、遠くへ足を運んで落ち着いて曲と共に終わった。
踊り終わってふと、先生を見ると何も言わずにうっすら涙を浮かべていた。
「凜ちゃん… 」
そう言われて思わず、笑みがこぼれた。
「すごく良かったよ、出来たね、出来たね。」
さっきの鬼の形相とはまるで違う仏のような顔だと凜は思った。
「まだ、まだなんだよ、足先のストレッチだって、アンデオールだってもっとできそうなの。でもね、今の凜ちゃんが最高に出来ることを今はやりのけたんだよ。凜ちゃん、自信もって!自分を信じれば、あなたは何でも出来るわ!」
そう言いながら先生は自分のカバンからハンカチを取り出して涙を拭った。
「自分を信じる力… 」
くじけそうになった時、心が折れそうになった時、その言葉がいくつも自分を救ってくれていたのに、それすら忘れかけていた。
全日本グランプリの予選当日、凜はこれまでになく自信に満ち溢れていた。昨夜はママからしっかりマッサージしてもらったから、広背筋や首周りの筋肉が柔らかく感じたし、身体が軽かった。

その26

 新宿文化会館のロビーの一角に陣取っていつも通りレジャーシートを広げた。いつもなら緊張で押し潰されそうなのに一昨日の感覚が身体にしっかり残っているのを感じていたから心が明るかった。

「私ならやれる!」

という根拠のない自信が今日は漲みなぎっていた。

「凜ちゃんおはよう!」

いつもの明るい調子でナナ先生が現れた。

ストレッチをしていたけれど、すくっと立ち上がって挨拶をした。

「おはようございます!」

「さあ、今日は思い切りやるだけね!メイクやっちゃおうか?」

「お願いします!」

そそくさと、周辺に散らかっていたストレッチ用のグッズを片付けて、先生が座る場所を作った。

先生は対面して座るとすぐにいつも通り、紫のアイシャドウで華やかなメイクに仕上げていく。中学生になったら自分でやって行かなくちゃならないだろうなぁと考えていたら、

「凜ちゃんもだいぶ大きくなってきたから、そろそろメイクの練習しようね。最初はアイラインの線がうまく入らなくてガタガタの線になってしまうかもしれないけれど、練習していけば上手になっていくよ。」

「はい… 」

小さめな声で返事をした。

でも、凜はメイクの事よりも周りが気になって仕方がなかった。見ると、体の大きなしっかりした筋肉の付いた子ばかり。

「私の筋肉はまだ弱いなぁ。もっと付けていかないと床を使った踊りができるようにならないよね… 」

メイクが終わると先生は練習しに行くから衣装を着るように促した。

「そうだ、後は悔いのないようにやるしかないんだ!」

と自分を奮い立たせて先生と一緒に練習室へと向かった。

 そこには雑誌「マリー」でしか名前を見たことがない子達が多くいて凜はたちまち圧倒されてしまった。それを見た先生が「凜ちゃんここで練習できるよ。」という声をかけてくれたことで、自分を取り戻した。「そう、練習!」

20 人ほどの出場者が程よくばらけて練習している様子に凜は再び劣等感に襲われそうになったが、ここまで来たら後悔のないようにやるだけだという思いを新たにして自分の踊りに集中した。

時折先生にアドバイスをもらい、同年代の足のきれいな男の子達の集団を横目に見てはまだ自分に出来ることがあるのだと奮い立たせて念入りに甲出しのストレッチ、ピケの練習などをして1 時間の練習時間を過ごした。

緊張の糸が解れたわけではないけれど、上手な子達の傍で練習できたことが少なからず凜の心にいい影響を与えた。鏡に映る自分の姿を見て、大丈夫と何度も自分に言い聞かせた。

本番10 番前になり舞台袖に入った凜は、自分が少しでもスワニルダに近づけるようにと集中力を高めていった。先生も早々に音きっかけのため下手に行ってしまい、一人、上手に残って最後の練習で先生に言われたアドバイスを繰り返して練習した。

アナウンスが入った。

「One twenty-four, Lin Yanagi…. (ワントゥエンティフォー、リンヤナギ)」

大きく息を吸っていつも通り落ち着いて板付きをした。大きく手を動かすと同時にスワニルダの明るい音が会場に響き渡った。朝の空気の中、舞う。

ピケアチチュードで一歩立つ。

「うん、大丈夫!今日は行ける!」

もうそれからの凜は赤い靴の主人公の様に勝手に足や体が動いて抜けるような感覚だった。最後のマネージュ(回転)になった時に、ピケのつま先が抜けないようにと先生から言われていた注意を思い出し、精いっぱい遠くへ脚を出しては頭の先から抜けるような感覚で回り続けた。

その27

 7月のコンクールの時以上に舞台上で悔いなく踊れたと思った。袖にはけるといつも通り、先生が笑顔で待っていてくれた。

「おつかれ。」

一言だけ声をかけてくれた先生だったけど、言わなくても少しだけ凜の踊りに満足してくれてる様子が伺えた。

ママの元へ戻ると、ママはまたしても涙を拭いながら待っていた。

「ママって本当に涙もろいんだから!」

と心の中で思いながら、

「どうだった?」

と聞いてみた。

「ちょ、ちょっと待って… 先生ありがとうございました。」

ママは言葉になってなかった。決勝に言ったわけでも一位を取ったわけでもないのに、大げさだなぁと思うも、いつも真剣に自分の事を見ていてくれるママに感謝の気持ちも沸き起こった。

「頑張ってましたね。一昨日の様子から少し成長したみたいでホッとしました。じゃあ、これで私は帰りますね、結果出たら教えてください。」

 先生は笑顔で去って行った。ママと二人でお礼を言って見送った後、ママは糸が切れたように

「凜、よくこの大舞台であんなにどうどうと踊ったね!ママ、嬉しくて、感動してもう言葉にならないよー。」

と言って、まだ衣装を着たままで、汗で湿っぽい凜をギューッと抱きしめた。

 来年中学生になる凜にとっては少しくすぐったいような心持がしたが、ママが喜んでくれていることが嬉しくて仕方なかった。

「これで決勝行けなかったとしてもまた次、更に頑張ればいいんだ!」

凜はすがすがしい気持ちだった。

 数時間後、1 階のロビーに張り出された決勝進出者の番号の中に、凜は自分の番号を瞬時に見つけだした。

 言葉にならず、ただ黙ってその番号を見つめるしかできなかった。

「あったね… 」

ママがまた泣き出しながら呟いた。

「うん。また、ここでもう一度踊れる!」

 凜はこの大きな舞台でもう一度踊れる喜びを噛みしめていた。

 その夜は家に着いたのがもう遅い時間だったにも拘らず、凜は今日の踊りのチェックをしなくちゃと言って、帰るなりDVD を見始めた。どんなに上手くできたと思ってもこうやって見返し、反省することで修正点を山のように発見することができる。それに加えて自分を戒め、新たな一歩に向かい合うように心がけた。

 先生が良く言うように、バレリーナになりたいんだったら自分の事は自分でやれなくちゃいけない。いつまでもママに頼るような精神状態じゃスカラーシップのオファーがあってもホームシックになって無駄になってしまうだけ。だから、最低限の事は自分でやって行かないと!という思いが徐々に芽生えてきていた。心が強くなくちゃバレリーナになれない、いつまでも自分の言いたいことをママに代弁してもらうようじゃ世界とは向き合えない。凜の心は世界に向いていた。

「まだ、私の可能性は未知数だけど、途中で何かを投げ出したら全てがそこで止まってしまうんだ。」

 そう考えているうちにナナ先生が以前こんなことを言っていたのを思い出した。

「世の中の成功者の人たちがなぜ成功したんだと思う?それはね、失敗しても挫折しても諦めなかったからだよ。99 回ダメでも100 回目で成功するかもしれない。1000 回ダメでも1001 回目で成功するかもしれない。その可能性を捨てるのは簡単。だって、世の中のほとんど人たちが1 回、2 回の失敗で諦めて上手くいかなかったと言うでしょう。私だって才能があるわけじゃないし、誰よりも優れているわけじゃない。でもね、バレエの先生になりたい!っていう情熱や信じる気持ちは誰にも負けなかった。だから、中学生の時、高校生の時、自分より上手な子ばかりだったけれど、続けてきたから今がある。今があるからこうやってみんなに話をすることができるの。もちろんバレエの世界は厳しくて、身体的な条件がものをいうシビアな世界だけど、私が自分のプロポーションや才能のなさに悲観して、とっくの昔にバレエ辞めてたらみんなには出会えなかった。だから、自分を信じる事を忘れちゃだめだよ。きっとどこかかに道は続くから。そのためには今、努力しなくてはだめ。自分のお母さんに頼り切る生活はしちゃだめ。自分の事は自分でやりなさい!だって、あなたたちの人生はあなた達のもので、お母さんの人生じゃないから。」

 珍しく先生が熱く語ってたのを思い出した。だいぶ前の事だったし、まだ4 年生の頃だったからはっきりとしなかったけれど、6 年生になった今の凜には響いてくるようだった。

明後日の決勝に更に悔いがないように、そして、自分が築いてきたスワニルダを全て出し切れる心の強さを手に入れなくてはならなんだと思うと、早く自分を試してみたくて仕方なくなった。