
その4
だから、凜がるのは5番でスッス― 足先を外側に向けた状態でクロスして両足つま先で立つ― して、体を前後左右に倒してポアント(つま先立ち)で動かないようにすることや、自分でシャンジュマン(5番の足を左右変えながらジャンプ)する時に軸が使えているか確認してもらうくらい。
それでも優雅に踊るお姉さんたちを見て刺激を受けている。
ナナ先生の口癖の一つで、「物は盗んじゃいけないけど、バレエは人のやっていることをよく見て良いところは目で盗みなさい!」ということを凜は実践している。でも、そのせいで先生からは「顔が真剣すぎて怖い。」とよく言われてしまう。集中しすぎると、表情のことまでまだ考える余裕がない。目下、レッスン中に表情を豊かにするというのが目標だけれど、それが案外、難しかった。
ストレッチを終えた頃、プチクラスのレッスンが終わった。それと同時に、雨野先生も教室に入ってきた。凜が先生の傍に行って挨拶をしていると、レッスンを終えた小さい子たちも凜に倣うようにして先生に挨拶をしに来た。
凜がYAGP の日本予選に行ってから上達して帰ってきたのを見たバレエ教室の子達も刺激を受けて、教室自体、俄かに活気が出てきた。これまでは地域の一バレエ教室だったのが、もしかしたらプロも目指せるんじゃないかと思わせるような雰囲気が漂い始めたのだった。
最初は雨野先生のクラスレッスン。レッスンは淡々と。でも、ものすごく丁寧に、きっちりと進む。ナナ先生のレッスンとは対照的だと凜は思う。ナナ先生は感情の起伏が激しく、小さな声でしゃべることなどほとんどない。みんなが騒がしければそれ以上に大きな声を出して「人の話を聞けー!」とよく叫んでいるし、笑顔が絶えない、ちょっといい加減なところもあって、みんながバーでプレパレーション(準備)をする前に音をかけてしまって、生徒たちが慌てて音を追うというようなせっかちなところがあるのに比べて雨野先生はプレパレーションが全員きっちりできるまで絶対に音を出さない。
だから、この先生たち二人がしゃべっているのを見ると、何を話すのかと不思議でたまらなくなる。それでもナナ先生が笑顔で話しているのを遠目から見ているから、大人はすごい。と、11 歳の凜は感心する。学校のクラスの子達なら、自分と雰囲気が違うことはまず話そうともしないのだから。
雨野先生のバーでのアンシェヌマン― 動きの組み合わせ― は単純だけれど、組み方がナナ先生のそれとは違うから難しい。でも、どの先生のレッスンでも足と手と顔の向きとを音に合わせて動かすのは同じ。だからいつも脳みそがフル回転状態で、上手くできた日や身体が自分で思うようにコントロールできなかった日などがあるけれど、レッスン後は頭の回転がすごく良い。毎回、家に帰るとすぐさまバレエノートに出来たこと、出来なかったことを書いて反省しながら体を動かしてみる。そうするとレッスンではできなかったことがスッと入ってきたりするのが心地よかったし、不思議と終わってなくて手こずっていた宿題も捗はかどった。
雨野先生のクラスレッスンが終わると先生が
「45 分からスタートするからトウシューズ履いて!それ以外の子はここで終わり。」
生徒たちが一斉に先生の前に集まって
「ありがとうございました!」とレベランス(バレエの挨拶) をした。
凜がトウシューズを履いていると帰る用意ができた同じ学年の子達が「凜、頑張ってね!」と言って足早に稽古場から去って行った。
凜はこれから始めるパドドゥクラスにワクワクしていた。前回初めての時は、軸が安定していなくて始終グラグラしっぱなしだった。先生に両手で腰を持ってもらい、5番ポジションからスッスして立った時でさえ、斜めにされただけで不安な気持ちから動いてしまった。
雨野先生は「絶対に落とさないから僕を信じて。」と言われるけれど、男の人に腰を支えられて信用するという意味がいまいち理解できなかった。
それでも堂々としている上級生を見て「私もできる!」と言い聞かせてのリベンジだった。先生はそんな凜の思いを知る由もないのだけれど。
凜の順番になり、プレパレーションと同時に大きく深呼吸した。「ヨシッ!」と心の中で気合を入れてから5,6 のカウントで歩き始めて7,8 で5 番からプリエしてスッスして頭のてっぺんから何かで引かれるように大きく伸びた。1 のカウントから先生が倒し始めた時、前回よりも自分がリラックスして出来ているのを感じた。前後左右に先生に倒されても自分の軸がしっかりあるのが感じられる。「あ!これなら今日は動く感じがしない!」と嬉しさのあまり表情がほころんだ。一番最後だった凜が終わると曲を止めた先生が
「良くなってるね。名前は?」
「りん… 柳木凜です!」
「凜ちゃん?みんな、凜ちゃんを見てて。じゃあ、ここ来てもう一度同じことをやってごらん。」
「はい!」
凜はそう言われると急に緊張してしまって、さっきやったような感覚ではなく、上級生からの視線で固まっている自分を感じた!
「さっきの方がだいぶ良かったんだけどな。凜ちゃんの伸びようとする感じをみんなも感じて!じゃあ、最初の人からもう一度。」
雨野先生は苦笑いしながら最初の高校生に戻った。
その5
凜はお手本にしてもらったのが嬉しくてたまらず、その後ニヤニヤがしばらく止まらなかった。
その後はアラベスクやピルエットの練習で最後はジャンプの練習。今回は全部やらせてもらえた。アラベスクで回ったりするとどうしてもまだ落ちそうになるけれど、今日は絶対にやるんだと決めて来たから斜めになりながらも踏ん張った。
クラスレッスンからあっという間の3 時間。凜にとっては新しいことができたという喜びに満ち溢れた充実した時間だった。
「どうして学校の授業は45 分なのに長く感じるんだろう。」
帰り道、迎えに来てくれたママに言った。
「好きな事をやっている時間は飛ぶように過ぎてしまうのはみんな同じ。それだけ集中しているってことよ。良い事よね!ママだって本を読んでるとあっという間に夕方になっちゃうからどうしてだろうって思う時がしょっちゅうよ!」
「ああ、それで夕飯が納豆ご飯と味噌汁だけっていう事になるのね!」
「… そう、そういう事!だって、本の世界って魅力的じゃない?」
「分かるけど… 凜、お肉食べたい時もあるんだよね。」
「あら、じゃあそんな時は言ってよ。お肉パパっと焼くから。」
「うん!そうする!」
そんな他愛もない会話が凜にとっては楽しかった。いつも忙しそうにしているママだから、家でも一人で遊ぶことがどうしても多くなってしまう。そんな時は本を読むか、自分の部屋でぬいぐるみを片っ端から並べてみるか。最近はバレエ熱がすごいために概ねストレッチをする時間に充てているけれど。
家に帰るや否や、凜は2 階に駆け上がってバレエノートを開いた。今日あった出来事を書き留めて合わせて体も動かしてみる。雨野先生のバーレッスンをゆっくり思い出しては首のつけ方を注意深く復習してみた。そうこうしているうちに1 階からママの声がした。
「ご飯できたから降りてらっしゃい!」
「はーい!」
1 階に降りると、凜が大好きなチキン南蛮が用意されていた。
「わー!チキン南蛮だ!やったー!」
「さっき、お肉が食べたいって言ってたからね。」ママは缶ビール片手にじゃがりこを食
べていた。
「ママ、食べないの?」
「夜食べると太るから一切れだけもらうわ。」
「でも、ビールの方が太るんじゃないの?」
「だから、白ご飯食べないの!炭水化物抜きダイエット!」
「ふーん。それ意味あるの?大人って難しいんだね。」
「そう、大人は難しいの。」
その夜はママが爆発することもなく、穏やかに過ぎた。眠りにつく前に月刊バレエに掲載されていたオリガ・オシポワの写真を眺めて、「いつかこんなふうになれたらな。」と思った。
その6
あの2 回目のパドドゥクラス以来、凜は雨野先生にクラスレッスンでもよく見てもらえるようになった。何かというと凜の前で足を止め、注意を促してくれた。それと共に凜のモチベーションもますます上がり、普段のナナ先生のクラスレッスンやコンクールレッスンが楽しくて仕方なくなった。
努力すればするほど筋肉の付き方が変わっていくのを感じた。ふくらはぎの筋肉を回すのにはバー・オ・ソル、いわゆる床バーが分かりやすかった。ナナ先生のレッスンでは2週間に一回程度バー・オ・ソルをやってくれるから自分の体と向き合う時間が作れた。それによってハムストリングを使えるようになってきたし、立っているとどうしても使いがちな大腿筋に寝ながらだと力が入りづらいから、正しい筋肉を感じることができた。それに膝の向きだって、立っていると捻じれているようになってしまうのを寝ながら足をストレッチさせていくことで改善できた。
6 年生になってからは週に4 回だったバレエの回数も5 回に増やした。学校の友達が受験勉強でバレエを辞めたり、学校の合唱部で忙しくなって4 回だったのを2 回にしていく中、凜だけはバレエに真っ直ぐだった。
凜だって、歌が好きだから音楽の先生に合唱部に入らないか、一緒にNHK 合唱コンクールに出よう!と誘われた時には多少揺らいだこともあったけれど、バレエを優先したいからときっちり断った。その時の音楽の先生の残念そうな表情は今でも覚えている。
ナナ先生からは今年のYAGP に向けてどのバリエーションを踊るかの話があった。凜も家で色々見てきたけれど、どんな踊りを自分で踊れるか、楽しみ半分、緊張感半分だった。
「凜ちゃん、ユースで踊る曲なんだけど、スワニルダの1 幕にしよう。これだったら表現力、ピルエット、ジャンプ色々揃ってるからいい勉強にもなると思うの。」
凜は嬉しさでいっぱいだった。と同時に大きな挑戦であることも感じ取った。
「はい!」
「凜ちゃんはジャンプが苦手だから、これからどうにかしてしっかり飛べるようにならないとね!振付、明日までに覚えて来れる?」
「はい。大丈夫です。」
凜は、堂々と答えた。なぜならもう何十回とみているスワニルダの1 幕のバリエーションの振付は既に頭の中にあるから。
次の日のクラスレッスン後のコンクールレッスンで凜は初めて踊った。家ではママに「家を破壊しないで!」と言われながら何度となく踊ってみたけれど、広いところで踊るのは全く違った。距離感も上手く掴めないし、パとパの繋ぎでどうしても音がずれてしまった。
そして何よりひどかったのがグラン・パ・ドシャ。全く飛べなかった上に、曲が終わった時の自分の体力のなさに愕然とした。
先生も苦笑いしながら
「これは相当頑張らなくちゃならなさそうね。まずは体力!そしてね、いつも言ってるけど、腸腰筋の引き上げが全くないの。上体の引き上げは何回もやって、自分の感覚を掴むしかないの。それから、出だしのとこのドゥバンの前の足!パラレルはありえないし、お尻だって後ろに付き上げて出してるでしょう!これも、筋肉!腸骨筋は縮めない!大臀筋は使わない!座骨は真下!」
と矢継ぎ早に全体にわたる注意をした。
最後には凜も「はい。頑張ります… 」と弱々しげに答えるしかできなかった。
