タイトルの国立バレエ学校、日本にはない。
日本は共産主義国家(社会主義国)でもない、資本主義、民主主義。
私立のバレエ学校もほとんどないけど、地域のバレエ教室の数は世界一。だけど、アメリカのような地域の寄付がカンパニーを支えているというのもないから、各バレエ教室、並びに日本のバレエ団は自費運営のところが多い。
「自己責任」。
現在、フランスの大学で学んでいて思うこと。結局、国家が介入しないとバレエ教育は指導者任せの無法地帯になる。個人主義で、儲かっても、痛手を踏んでも全ては個人。
どんなバレエ教育を施そうと、それは個人の問題になるのが今の日本バレエ。
なぜなら、確固たるメソッドが存在せず、個人の能力によって子供達の育成の仕方が異なるから。
今年に入って一発目の授業でキューバの国立バレエ団について学んだ。
キューバと言えば、ジゼルで有名なアリシア・アロンソが踊っていた社会主義国家である。国立バレエ団自体も彼女がベースとなるバレエ学校を1948年に立ち上げて、その頃に議長だったフィデル・カストロの政権下で国立バレエ団となった。
フィデル・カルロスはキューバを社会主義国家(共産主義国家)としてから、国力の権威を見せるために文学、映画、そして芸術に重きを置いた。その中で、当時キューバに入ってきたバレエをプロパガンダ的に使い、国力を高めようとする狙いがあった。
最近調べていたソ連のバレエの在り方と類似。
アリシア・アロンソ自体はバレエ団設立当時、フィデル・カストロに頼りすぎていると言う批判も多かったというが、今のキューバのバレエのレベルの高さを維持できているのは彼女のおかげに他ならない。
アリシア・アロンソは2019年に亡くなるまで、視力を失っても、同バレエ団の指導を続けた。16歳で結婚した彼女はアメリカで夫のフェルナンド・アロンソと共に踊り、19歳で網膜剥離のため、視力を失い始めた。ニューヨーク・シティ・バレエの前身であるアメリカン・バレエ・キャラバンで踊り、ジョージ・バランシン作品などを各国を巡った。
その後、1970年代に手術をして視力はだいぶ回復したようだが、晩年はほぼ盲目であったという。
彼女が1963年のジゼルを踊ったビデオを授業中に見たのだが、その美しさはヨーロッパのバレエに匹敵するものだと私、個人的には思った。
しかし、当時は差別主義的なことがヨーロッパではまかり通っていた時代。
その後、1966年にヨーロッパ公演を行ったカンパニーに対する批判は強かった。
”トロピカルなジゼル”と名売ったり、1959年のキューバ革命を引き合いに出して、「革命の解放の風はまだ国立バレエには吹かれてないようだ…」、「キューバ、革命、トロピカル…」、「ウィリー達はゲルマンの亡霊を模してるだけで、キューバ風であった…」などなど。
しかし、彼女が同年、1966年にパリ市グランプリとパリ舞踊大学アンナ・パブロワ賞を受賞しているところを見ると、彼女の踊りには当時のヨーロッパ人が受け入れざれない高い技術や表現力を持っていたのだと思われる。
下記はジゼルの映像だが、主役ジゼルを踊ったアリシア・アロンソは素晴らしいとビデオを見て思う。
ちなみに、この時代はイタリアの名バレリーナ、カルラ・フラッチ(1936-2021)がいたり、また、イギリスにはバレエをやっている人なら名前は必ず聞いたことがあるであろうマゴット・フォンティン(1919-1991)がいた。
※ルドルフ・ヌレエフは1961年に同じく共産主義国家だったソ連から亡命(亡命地はフランス)している。
下記はカルラ・フラッチが踊ったジゼルであるが、一瞬で観る人を虜にするようなこの笑顔(1幕)と上品さ、愛らしさなどを兼ね備えているバレエダンサーは現代でもなかなかいないと思う。
ソ連、キューバ、中国、いずれも共産主義国家。そこには国立バレエ学校があり、国立バレエ団がある。国としてバレエを支え、バレエの「美」をプロパガンダとして利用する。
ただ、共産主義国家は同性愛者には厳しく、キューバ国立バレエ団の男性ダンサーの同性愛者だと疑われた者はカストロ政権下で即刻投獄される時代で、1966年のヨーロッパ公演の際には10名ほどの男性ダンサーが亡命の道を選んでいる。
共産主義国家ではない国々の国立バレエ学校及び、国立バレエ団がどのようにして作られたかは度々、このブログでも触れているところだが、今一度触れることにする。
フランスは王政時代にすでにルイ14世(1638-1715)によって1661年に王立バレエアカデミーが作られ、現在のパリ・オペラ座バレエにつながり、日本と同時期にバレエが入ってきたイギリスでも1909-1929に西側諸国で公演を行ったバレエ・リュスの影響を受けて直ちに国立バレエ団が作られた。(その頃はまだロシアンスタイルだったらしい。)
🩰イギリスのバレエ
アイルランド出身のニネット・ド・ヴァロワが1923年にディアギレフのロシアバレエ団に加入し、3年間踊った後、ポリオによりディレクターへと転身した。
そして、1931年、上から押しつけられたものではなく、実践的理想主義者として、また民間の子供達としての理想を掲げ、彼女のヴィック・ウェルズ・バレエ団を立ち上げた。そこにはアリシア・マルコワ、アントン・ドリン、タマラ・カルサヴィナが加入し、フレデリック・アシュトンを雇うこととなった。
バレエ団は1939年にサドラー・ウェールズバレエ団となり、その後、第二次世界大戦中には連合軍の前で踊るなどの活動をした後、1946年に現在のロイヤル・オペラ・ハウスの場所へと居を移した。
そして、1956年にロイヤル・バレエとなるに至った。
バレエ学校の方はと言えば、バレエ団創立よりも早く、1920年にザ・ロイヤル・アカデミー・オブ・ダンス(Royal Academy Dance=RAD)が設立され、ロシアも含むヨーロッパ各地から一流の講師達が召喚された。ただ、現在のロイヤル・バレエはRADとは別の独自のシラバスを使用しているらしい。
ちなみにマゴット・フォンティン自体は、世界中を家族と回りながら至る所でバレエのレッスンを受け続け14歳でヴィック・ウェルズ・バレエ学校に入学し、その後、ヴィック・ウェルズ・バレエ団において1939年にはニネット・ド・ヴァロワにより白鳥の湖、眠りの森の美女、ジゼルの主役を任されるようになり、後に亡命を果たしたヌレエフと名コンビとして踊っている。
また、バーミングロイヤルバレエのディレクターであるカルロス・アコスタはキューバ国立バレエ学校の出身で1990年のローザンヌ国際バレエコンクールでゴールドメダルを取り、ロイヤル・バレエ団でその後プリンシパルとなったダンサーである。
現在、アメリカと日本には国立バレエ団はないが、アメリカという国は寄付の精神が日本と比較すると強い。日本は母子家庭などの貧困層を対象にしてもそうだが、「自己責任」という言葉が目立つ。
娘を奨学金を利用して高校留学させてもらっている母の立場からすると、「自己責任」という言葉で片付けられてしまうと、一抹の悲しさもある。また、欧米諸国と日本では最低限の暮らしの意味合いもだいぶ異なるのだとこのフランスに住み始めて感じた。
こうやってフランスの大学でダンスや政治、国の歴史を学んで行けばいく程、ますますもって日本で収入の見込める国立バレエ団、ないしは寄付によって成り立つ公立または私立の収入が見込めるバレエ団を設立するのは至難の業だということを感じざるを得ない。
現在の日本では、協調性、団体の統一性を強いる傾向が強いが、結局はどの国よりも個人主義が強いのではないかと改めて思った2026年初めの授業であった。
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