🩰踊りの中の哲学。見えるもの、見えないもの。コンテンポラリー作品を考える。

フランスの哲学者メルロ=ポンティを授業で扱ってから、ずっと頭から離れない。

超越性。

歩くと言う概念から生み出されるコンテンポラリー作品も多い昨今。

なぜ、歩く事が作品に繋がるのか。「舞台上の歩き」が内在する美しさを表現し、人の心に響く事がある。

それはなぜか?

ダンスと哲学は切ることができない関係性だけれど、日本だとあまり重要視されていないように見える。特にコンテンポラリーダンスの場合は、その振り付けに哲学があるはずで、「間」の取り方が重要になってくる。

ピナ・バウシュやウィリアム・フォーサイスやスティーブン・パクストンなどの振付家がモーリス・メルロ=ポンティの著書、「見えるもの・見えないもの」に少なからぬ影響を受けているように見える。

肉体と精神的な繋がりを「肉(la chair)」に見る視点は、「空間は与えられたものではなく、身体によって生成される」という事を表現しており、身体そのものが見る「主体」であり、見られる側でもあるという捉え方、つまり、それは見る側に問いを投げかけ、そこに振付家の思想を含ませる振付がコンテンポラリーである。

メルロ=ポンティ自身が身体というのは、意味の担い手と語っているように、たとえばフォーサイスの動き(振り)は知覚への問いかけを意味している。それぞれのダンサーの動きが明確に意味を持たないとしても、観客に見えない知覚的な感覚や「間」を感じさせる事を目的としていて、それは日本の能の世阿弥のとく「見えない花」と同じ意味合いを持つ。

まさに、現代の観客が舞台を見た後に感じる「舞台の余韻」こそが見えない花であり、「知覚的な余韻」である。

時代も国も違う世阿弥とメルロ=ポンティには意外な共通性があるのが面白い。

2人とも「見えるもの」「見えないもの」その「間」を重要視しており、そこに現代の振付家達が作品を作り上げるきっかけを求めている。

話をフォーサイスに戻すと、彼は踊りを身体的な哲学な実験場として捉えており、メルロ=ポンティの唱える「動く現象学」を舞台上で再現しているのではないか、と思っている。

偉大な振付家として多くの作品を残している彼だが、パリ・オペラ座バレエ、特にシルヴィ・ギエムのために作られたと言っても過言ではない作品「In the middle Somewhat Elevated」(1987) では身体が「動く思考」として捉えられており、超越した身体性への挑戦である。

つまりそれはメルロ=ポンティの語る「知覚の現象学」と通じる。

フォーサイスの作品では身体それ自身が、言語のように意味を持ち、問いかけ、文脈のような構造を持っている。特にこの作品では、動きの連続というより、「感覚的な断絶と再編」で構成されていて、上に挙げた「動く思考」=ダンスとなっている。

また、舞台上の空間というのは「与えられたもの」ではなく、「生み出されるもの」との解釈が強い作品で、クラシックバレエの軸(垂直、対称、重力感)から敢えて外すことで観る者に、身体が空間を創り上げることができるというのを見せることに成功している。

これにより、観る側は均整のとれたバレエダンサーの身体を通じて「空間が歪む」「軸が崩れる」「重力が曖昧になる」などの知覚体験をすることができる。

つまりそれは通常、私たちが体験している重力への裏切りをダンサーの身体を通して擬似体験しているようなものであり、「見えるもの、見えないもの」の狭間にある「間」(一瞬のズレ、緊張、動きの予感)を感じる事で舞台へ、また、その作品の奥深くへと惹かれるのである。

観客にとっては「見えるもの」以上に「身体で感じる」作品であり、フォーサイスの振り付けを体現しているダンサーにとっては「空間と身体の関係性への問い」を自分自身の踊りに変化させる作品である。

つまり、この「In the middle Somewhat Elevated」においては特に、感覚、構造、存在の表れを体現している作品であり、そのニュアンスをどこまで踊り手が追求できるかが鍵となってくる。

最初にこの作品を踊ったシルヴィ・ギエムは並外れた身体能力を持つ事で有名だったが、揺るぎないクラシックバレエの技術を持つ身体から放たれる制御された違和感という点において、他の追随を許さない。

ぶれない軸のコントロールを踏まえた上で、それをあえてずらす事で、不均衡の中の美を体現した。それは、見られる対象であるはずのダンサーの身体が主体となって空間を支配している感覚を表す。

観客はまさに、彼女の動きから知覚していることを感じ、不均衡さ、見えない空間、「間」から美や存在を感じ取ろうとするのである。

また、建築家のル・コルビジェとウィリアム・フォーサイスの間にもメルロ=ポンティの示す「身体と空間の関係性」が見て取れる。

いずれも空間を支配するもの(主体)があり、それは見られる側にもなる。また、「経験」(年数)によって空間は構築され、発展していくという解釈も似ている。外観という軸の中には曲線美を伴った内側が存在し、コルビジェ、フォーサイスの両者に共通する解釈であるように思う。

「空間は静的な背景ではなく、身体との関係性の中で生まれる」

可視と不可視の交差「見えるもの、見えないもの」=表現、深層の知覚こそ、メルロ=ポンティが著書の中で提唱していた概念である。

「歩く」と言う単純な行動が作品となり得るためには、コンテンポラリー作品の中に作品の意図や思想を表現する必要がある。

振付家の哲学を見いだす事ができるようになると、日本でももう少し舞台作品として多くの人達に受け入れられるような日が来るのではないかと思う。

そのためにはクラシックバレエだけに重きを置かない見る側の思考が重要であり、作品を作る側の振付家達がどれだけ自分の作品に魂を送り込めるかが鍵となってくるだろう。

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