
その13
「凜ちゃん、ピケの足しっかり突き刺さないと!」
「はい。」
鏡に映る自分の姿が無様に思えた。お化粧をしてもらって、素敵なお衣装も着ているのに凜の心は曇りがかっていた。
「ねえ、凜ちゃん、ママから聞いたけど、そんなに痛いならやめる?棄権しようか?そんなブスッとした腫れぼったい目のスワニルダで舞台上がるつもり?いい加減にその表情をやめるか、棄権しなさい。」
久々にナナ先生が静かに怒っている。
怒鳴っていないナナ先生の怒りはちょっと怖い。凜はハッとした。
「棄権… 。あ、これじゃだめだ。」
凜の心に棄権の二文字が鳴り響いた。
「絶対そんなことはできない!したくない!」
心臓の鼓動が激しく耳元で鳴った。
「先生ごめんなさい。私ちゃんとやります。できます!」
そうだ、こんな事で時間を無駄にしちゃいけない。痛くても踊りきる力がないといけないんだ。
「それなら心入れ替えて本番に挑まないと、観ている審査員の先生方にも申し訳ないのよ。さっきの表情なんかで出たら先生方の時間を無駄に使う事になってしまうんだから!
それで、場当たりまで後20分しかないんだけど、痛いなら休憩する?それとも練習する?」
「練習します!先生方の時間を無駄にするような踊りはしません!」
さっきまでの弱気の自分はどこに消えたのかと思うくらい、胸が熱くなってやる気に満ちていた。
それから15分間、凜はとにかく集中した。痛いのには変わらないけれど、さっきまではポアントで立つと激痛が走っていたのに、今は大したことがないような晴れやかな気分だった。
場当たり5分前になって凜は舞台に移動した。舞台監督さんの合図で一斉に舞台へ上がった。大勢の同学年の子たちと肩を並べて舞台に立つ。皆一様に自分の場所や状態を確認しながら先生たちの指示を受けている。凜は密集しているセンター周辺を避け、今自分ができることをやればいいんだと心を落ち着かせて、人の少ない舞台奥でグランパドシャの練習を繰り返し、ピケターンで舞台の感覚を確かめていた。その間、ナナ先生も他の先生たちに交じって舞台袖の黒幕の内側からいろいろな指示を出し続けてくれていた。上半身の引き上げや、おろそかになりがちなつま先の伸び、パとパの間の付いた軸足のアンデオールなど、凜が忘れがちな個所を指摘し続けてくれた。
場当たりが終わって、出順が回ってくるまでの間にもう一度練習室に行って最後の確認を行うことにした。
その14
「凜ちゃん、思ったより場当たり悪くなかったけど、ピルエットの時、床を使えてなかったよ。」ナナ先生が静かに言った。
周りの子たちが黙々と練習している横で凜も出番まで出来ることをやろうと強く思った。
横を見ればコンクールで上位に入賞している子たちが数人、先生の付添いなしで自分の世界に入って確認している。凜は、「私だってここにいるんだ、前に進めるはず!」自分の気持ちを奮い立たせていた。
「そろそろ行くよ?」ナナ先生が声をかけてくれた。
「はい。」
シューズカバーを急いで履いて汗を拭きながら舞台袖に向かった。
出順のちょうど10番前。
袖で集中力を高めていた。
「凜ちゃん脚出して。」ナナ先生に言われるがままに足を出すと、甲をギューッと伸ばされた。
「痛っ!折れる、折れる!」
「いや、折れないって。距骨をしっかり使えるようにしておかないとね!可動域を広げておいて損はないでしょう?」
大きな声は出せないからひそひそ声で話す先生は真顔でさらりと言いのけた。その上、さらに30 秒間悶える凜を無視して甲を伸ばし続けて「はい、逆の脚。」と更に平然とした顔で言った。
仕方なく、もう一方の脚も恐る恐る先生の前に差し出した。まるで大切なものを生贄に捧げるようだと凜は思った。
思い切り伸ばしてもらってから立つと、さっきよりだいぶ立ちやすくなった気がした。
するとなぜだか気持ちも落ち着いてきて、足の痛みはあるものの、いつもの凜らしさを取り戻していくようだった。
出順の前の子の番号が呼ばれた。演目はキトリのバリエーション。どんなに上手な子だとしても、目に入らなかった。「私は出来る。大丈夫。」念仏のように唱えていた。横ではナナ先生が
「思いっきり楽しんでね、私、きっかけ指示するから下手に行くね。落ち着いてね!」
と言い残して足早に去って行った。
キトリの軽快な音楽が終盤を迎える。よし、行くぞ!と自分を奮い立たせて肩を回した。
その後、体の引き上げを促すように真上に足を縮こませるようにしながら5 度ジャンプした。
凜の番号が呼ばれた。
とびっきりの笑顔を作って、舞台に出る。下手にいるナナ先生が笑顔でこちらを見守っている。落ち着いて、板付きをしてから大きく呼吸するのと同時に腕を動かすとそれに合わせて音が鳴り始めた。
その15
最初のピケアチチュードでのバランス、体がふわっと浮くように感じた。今日は軽い!
アチチュードの脚もいつも以上に上がるのを感じたし、何より軸足で床を捉えているのを強く感じた。それに、客席の視線がこちらに注がれているのをひしと感じることができた。
コンクールの予選だからもちろん満席の客席ではないけれど、凜はこの感覚が嬉しくて、足の痛いのも忘れて踊っていた。曲が続き、アン・ファス( 正面) のパ・ド・ブレ(両足をクロスしながら動くステップ)からのピルエットに入った時だった。どうしたのか自分でも分からないけれど、突然床に落ちた。
何が起こったかわからない。それでも曲は続いている。
すぐさま立ち上がり、何事もなかったように踊りを続けた。曲が終わって幕の中に走り去ると、そこに笑顔のナナ先生がいた。
「偉かった、偉かった。」頭をポンポンしながら一言そういうと抱きしめてくれた。
それと同時に、凜の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ああ、もうきっと決勝は無理。」
心の声がこだまする。
「何で私転んじゃったの?」自問自答しても答えはでない。
「あんなに練習してきたのに!」そう思うと自分が許せなかった。悔しくて、悔しくて涙が止まらない。それを察するかのように楽屋に戻りながらナナ先生が言った。
「転んじゃった事はたいして減点にならないと思うから大丈夫。それに、そのあとしっかり持ち直したし、それがすごい大事なの!起きてしまったことを悔やんでも次への良いステップにはならないんだから、どうして転んでしまったかをもう一度考えてそれが防げる事だったらそれを修正するように練習した方がいいんじゃない?」
そう言い残して、ナナ先生は楽屋の外にいるママやこのコンクールを見に来たプチフルールの子達に会いに去って行った。
凜はハッとした。
「そうだ、くよくよしててもプロのダンサーにはなれないじゃん。場数を踏んで、今日出来なかったことを反省して次への糧にするんだ。ただそれだけ。新しい自分を毎回発見することが、次へ繋がるステップになるはず。今日は確かに体が軽かった。宙で舞うとい
う意味が少しだけ分かったような気がしたのを体が覚えてる!そして、転んだ瞬間… どうだったっけ… 」
凜は今すぐ練習室に行ってさっきの反省をしたい衝動にかられた。でも、次の出場者たちの練習の邪魔になることを躊躇ためらって楽屋で過ごすことにした。
ママに会った瞬間、涙腺崩壊しそうな感覚に襲われた。それでもそうならなかったのは、プロのダンサーを目指して前を見ようと決めたから。
