🩰セルジュ・リファールに憧れ、ニジンスキーになりたかった日本バレエの先駆者、東勇作
東勇作が生まれたのは1910年(明治43年)の仙台。1971年に61歳で亡くなっている。
そのため、現代で東勇作を知る人はオリガ・サファイア以上に少ないものと思うし、彼に直接師事した人たちもすでに亡くなっている。しかし、日本のバレエ界において彼の存在は大きく、彼の弟子たちの多くがその後の日本のバレエ界において牽引する立場となって、現在のバレエ界において存在力を示している。
- 1922年、12歳の時にアンナ・パヴロワが日本公演を観る
- 1930年に鎌倉にあったエリアナ・パブロワの内弟子となるべく、その門戸を叩いき、エリアナ・パヴロバの元では希少な男子として彼は荷物持ちをやったり、日本全国の旅公演の際にはエリアナの相手役を務めることもあった。
アンナ・パブロワと言えば、世界中でバレエ公演を行ったことで有名だが、彼女の踊りに対する向き合い方で驚くべきことは、バレエを知らないその土地の人たちがバレエを受け入れやすいようにと、その土地の伝統の踊りを学んだと言う。
オリガ・サファイアの著書によると、1922年に来日した際には、歌舞伎俳優六代目尾上菊五郎(1885~1949)から学んだと言う。
それによって、多くの「バレエ」を知らない日本人にも彼女の踊りが受け入れやすかったのかもしれない。(六代目菊五郎氏もアンナ・パヴロワの瀕死の白鳥を鑑賞し、その後の彼自身の歌舞伎の舞に大きな影響を受けたらしい。)
ただ、彼女のスタイルには基本のバレエレッスンがなく、100回の舞台は1回のレッスンに相当すると考えていた。
エリアナの指導方法に疑問を持った東は1936年(昭和11年)に来日し、その後、当時東宝会長であった奏豊吉の計らいで日劇で教鞭を執っていたオリガ・サファイアの元に移籍し、その後はオリガの相手役としての活躍を見せている。
彼は稀に見る勤勉家で、英仏の資料を読み漁り、踊りばかりでなく、自ら座学の知識も取り入れることを怠らず、後に蘆原英了が創設した「日本チェケッティ協会」に加わり、バレエ研究に取り組んでいる。そして、ヴァツラフ・ニジンスキーの踊り、セルジュ・リファールについての研究を怠らなかった。
ニジンスキーは誰もが知るバレエダンサーであり、ディアギレフと関係もあったと言うが(決別の理由はニジンスキーがハンガリー出身の女性と結婚した事にディアギレフが激怒したから)、リファールもニジンスキー同様、その容姿の良さからバレエ・リュスのディアギレフに見出され、ディアギレフ亡き後、バレエ・リュスの活動終了後はパリ・オペラ座バレエに入り、バレエ・マスター(在任期間:1930~1944年、1947~1958年)にまでなっている人物である。
下記は薄井憲二氏によるリファールについての項のインタビューの記事。
リファールは正規のバレエ教育を受けていないんですよ。ただ偶然に通りかかるようにして、面白そうだということでバレエを始めた。ゲイだから、ゲイとバレエというのは切り離せないところがあって、そういうところも吸引力になったんでしょうけど、ディアギレフ・バレエ団に入っても使い物にならないでしょう。でもビックリするようないい男でスタイルもいいから。ディアギレフに命じられて整形外科で鼻を削ったんですよ。鼻が高すぎると。それでだいぶいい男になったんです、エキゾティックに。それからミラノのチェケッティのところに住み込んで個人授業を受けます。当時の状況を書いた手紙が残っているんですけど、今の技術水準から言えば、ノーマルクラスです。それでもなんとか通用するようになって、ディアギレフ・バレエの最後のスターになりました。
つまり、踊りはそんなに上手くなかったが、見た目の良さや周りの人たちとの出会いなど、色々な幸運が重なり、パリ・オペラ座バレエのダンサーに上り詰めたようだ。
話を東に戻す。
日本洋舞史年表1によると、1937年8月には 東勇作はオリガ・サファイアの相手役として日劇の「ロシア・バレエの試み」に出演している。
また、国内で初めてドン・キホーテを踊ったのもオリガと東であった。
- 1939年、東勇作バレエ団を組織し(資料によっては1941年とするものもある)、直後に松尾明美(同じくオリガの門下生で、東がバレエ団を結成した際には日劇を辞め、彼のバレエ団に移り、東の相手役として舞台に立ち続けた。日本人として初めて32回の連続フェッテを観客の前で披露した。)も参加した。
- 1940年、後に松山バレエ団を設立する松山樹子も彼のバレエ団に加わった。
- 1941年2月、「レ・シルフィード」や「牧神の午後」を持って第一回公演を果たした。
- 同年11月、「ジゼル」の公演を行ったがアダンの楽譜が入手できなかったため、ショパンの曲による「ジゼル幻想」での公演となった。
- 1942年、以前紹介した薄井憲二がバレエ団に加わったが、その後、第二次世界大戦の戦地への召集令状が東にも、薄井にも届き、その間、バレエ団は松尾明美が取り仕切ることとなった。
- 1945年、戦後、東が戻ると小川亜矢子(スタジオ一番街創設者。1953年、日本人で初めて英国ロイヤル・バレエ学校に留学)が東に師事するようになった。
- 1946年、バレエ評論家であり、パトロンでもあった蘆原英了(画家の藤田嗣治の甥)の元で東京バレエ団が結成され、小牧正英が上海バレエリュスから持ち帰った全幕の楽譜を元に日本初の全幕バレエ「白鳥の湖」が服部・島田、貝谷、小牧のバレエ団と共に上演された。(美術担当:戦争のためフランスから帰国中だった藤田嗣治)
その中で、東はジークフリート王子役としてオデット・オディールに扮する松尾明美の相手役で舞台に立った。
上にも述べた通り、彼は、ニジンスキーやリファールに傾倒しており、特にニジンスキーの作品である「牧神の午後」や「薔薇の精」「ペトルーシュカ」を得意とした。彼の跳躍にはニジンスキー同様に定評があったと言い、自分のバレエダンの公演では幾度もそれらを踊っているが、彼には彼の哲学があり、フランスに留学し、本場の薔薇の精を見てきた蘆原英了が本来の振付と異なると、助言をしても受け入れない事もあったと言う。
東に師事した薄井氏が、とあるインタビューで答えている2014年の記事が実に興味深い。
インタビュアー (東氏は)私生活ではどんなご様子でしたか。戦後はゲイバーのマダムをやっていたこともあったとか。
薄井 そういう噂は聞いたことがありますが、実際にどうであったかは知りません。色々な意味でわがままな人でした。(中略)とにかく、そういう学校ができて、年数が経つと、つてを求めて入ってくる人も増えて、クラスも増えるでしょう。そうすると東先生も一人じゃやりきれないから私も行っていた。そのうち私の方が担当の時間数が多くなって。でも一銭ももらっていないから、これだけ時間をとられてはやっていけないというので、「すみませんけど、ほかの仕事がありまして」と辞めさせていただいたようなこともありました。
(中略)
そう。でも東勇作の弟子を辞めたわけじゃないです。私は東を尊敬していたから、死ぬまで辞めないし、時々相談に乗ったりもした。
インタビュアー 東先生はやはりカリスマ性のある方だったわけですね。写真で見てもすごくきれいですし。
薄井 そうです。東勇作を見てバレエを志したという人も何人かいますよ。一九三〇年代にあんなふうにできる人はいませんでした。どこに出しても恥ずかしくない。立派な身体だったけど、そんなに背は高くなくて一七〇センチくらい。初めて会ったときは東北訛りで変わった印象だったけど(笑)。自分でもルドルフ・バレンチノに似てると信じて疑っていませんでした。クラスを生徒に任せて出かけることもあって、そういうときは黒い帽子をちゃんと、ホンブルグに近いような、でも真ん中の凹んだふちの硬いものをかぶっていました。
(中略)
一九四六年に『白鳥の湖』全幕が来て、そこからバレエに目覚めるわけです。だから十九世紀のロシア・クラシック・バレエこそがバレエだという刷り込みが今も続いたままなんです。でも、東勇作はそうじゃない。一度だって四幕もあるような大バレエは自分ではしなくて、バレエ・リュスに傾倒していましたから、ちょっと時代とズレたようなところがあって気の毒だったですよ。そうしていろいろうまくいかなくなって、後援者だった自称・奥さんとも別れてしまうわけです。
この薄井氏の語る「自称・奥さん」と言うのが女性陶芸家の久松昌子という人物だが、彼女は戦時中、東の稽古場を守り続けた松尾明美を追い出し、松山樹子を泣かせて帰らせるというエピソードを持っているほど、気の強い女性だったようだ。
また、薄井氏によると東がオリガ・サファイアと疎遠になった原因もこの「自称・奥さん:久松昌子」だったと語っている。
それ以外にも同インタビュー内で
薄井氏 本にも書いたけど、当時は劇場を借りるだけのお金がなくて、美術倶楽部の大広間で会をやったりする。切符の割当もあって、関係する人はそれを売らなきゃならないんだけど「バレエの人には切符を売らないでくださいね、振付を盗まれるから」なんて久松さんが言うわけです。東は黙ってそれを聞いてる。「どうしてそんなことを言えるんだろう」と私は腹が立ったけど、先生だからしょうがない、言いませんでした。
最近までずっと、そういう雰囲気はありましたね。
以前、ロシア・バレエ・インスティテュートが始まる時にも、「モスクワから先生が来て教えますから」とあちこちの先生に声をかけたけど、その手紙も破いて捨てられたりしたそうです。
その先生の一人のところから二、三人来ていたから、「生徒さんをよこしてくださってありがとうございます」とお礼を言ったら、翌日からその三人は来られなくなりました。先生に叱られたんでしょう。今はそういうことも大丈夫だけど。
ちなみに、東勇作が稽古場として使ったという久松昌子が使用していた釜が現在も北鎌倉に現存している。
1946年以降はそういう諸々のこともあって、なかなか順風満帆とはいかず、小牧に人気を取られ、武者小路実篤の援助を受けた谷桃子を横目に見ながら、なかなか苦労の連続だったようだ。
1967年には「東勇作舞踊生活 40 周年記念公演」を行うなどしたが、どうにか松山バレエ団でのバレエ講師を務めるなどして生計を立てていた。
しかし、文化人との交流という点では小説家の川端康成との親交があったり、前述の通り、蘆原英了とチェケティについての研究を進めたりと、バレエの真髄を探るのに研究熱心であった。
最後は咽頭がんで1971年に亡くなっている。
以下は日本のバレエ界初期の重要人物
| 名前 | 生年 | 没年 | バレエ団名等 | その他の情報 |
| エリアナ・パブロワ (霧島エリ子) | 1897 | 1941 | 鎌倉 パブロワ・バレエ・スクール | 貴族?旅芸人? 慰問先の南京で死去。日本に帰化 |
| オリガ・サファイア (清水みどり) | 1907 | 1981 | 日劇ダンシングチームのバレエ講師 | 日本人外務官の妻 ロシアのダンサー。日本に帰化 |
| 橘秋子 | 1907 | 1971 | 橘秋子舞踊研究所(橘バレエ学校の前身) | 実家、宇都宮の家格の高い農家 |
| 服部智恵子 | 1908 | 1984 | 服部・島田バレエ団 | 父、ロシアで貿易商 |
| 東勇作 | 1910 | 1971 | 東勇作バレエ団 | エリアナ→オリガに師事 |
| 牧幹夫 | 1909 | 1970 | 牧阿佐美の父、インド舞踊研究 | 実父、宇都宮で弁護士 |
| 小牧正英 | 1911 | 2006 | 小牧バレエ団 | 岩手県の富裕層の家(醤油販売商店)、画家を目指 |
| 松尾明美 | 1918 | 2013 | 松尾明美バレエ団 | 1946の全幕白鳥でオデット/オディール。渋谷区生まれ |
| 島田廣 | 1919 | 2013 | 服部・島田バレエ団 | 韓国生まれ |
| 貝谷八百子 | 1921 | 1991 | 貝谷八百子バレエ団 | 父、九州の代議士、規格外の富豪 |
| 谷桃子 | 1921 | 2015 | 谷桃子バレエ団 | 父、兵庫県で外国の商社勤務 |
| 近藤玲子 (貝谷の姪) | 1923 | 2009 | 読売ランドの 近藤玲子水中バレエ団 | 宝塚で扇千景や淡島千景を指導 |
| 松山樹子 | 1923 | 2021 | 夫、清水正夫を団長として松山バレエ団設立 | 父、兄共に競馬調教師、鹿児島出身 |
| 薄井憲二 | 1924 | 2017 | 東大出身、東勇作バレエ団所属、元日本バレエ協会会長 | 東京生まれ、戦後、4年間のシベリア抑留 |
| ワトソン繁子 (笹田繁子) | 1926 | 2003 | 服部智恵子の娘、インド舞踊家 | 戦後間もない米国に渡り、米国市民権を取得 |
| 太刀川瑠璃子 | 1927 | 2008 | スターダンサーズバレエ団 | 成蹊小学校、東京女学館卒業 |
| 大瀧愛子 | 1928 | 2007 | 大瀧愛子バレエ・アート(タカラジェンヌの指導で有名) | 1953単身渡米バレエ留学 |
| 日本バレエ協会 | 1958発足 | 1946東京バレエ団が発端 | 1957のボリショイバレエに影響され、再集結 |
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