🩰日本バレエ界の未来を本気で考えたロシア出身の日本人バレリーナ、オリガ・サファイア
日本バレエ界で一番有名なロシア出身日本人(日本国籍者)といえば、エリアナ・パブロワだと思うが、実際は、今回取り上げるオリガ・サファイアほど、日本のバレエ界の未来のことを考えてその言葉を文章化した者はいないだろう。
彼女の功績はもっと讃えられても良いと思うが、エリアナ・パブロワを讃える者たちの陰の歴史の1ページに埋もれてしまっているように見える。
だいぶ違うけど、藤田嗣治と黒田清輝の関係が頭をよぎって離れなかった。
エリアナ・パブロワが積極的に日本の古くからある家元制度を利用して年齢のいった人たちでも相当に裕福な家柄の子たちはお弟子さんとして受け入れ、3年ほどで独立させたのに対して、
オリガ・サファイアは著書「バレエを志す若い人たちへ」で見られるように、どんなに才能があっても当時の日本でバレエで生きていくのは大変だからと、多くの若い人たちに一般企業へ就職することを奨め続け、後進を多くは残さなかった。
同じ、ロシア出身でありながら2人は対照的な立場で日本のバレエを支えたと言っても過言ではない。
オリガ・サファイア(本名:オリガ・イワーノヴナ・パヴロワ、日本名:清水みどり)はレニングラード国立アカデミー舞踊学校を卒業したのだが、たまたま自分の姓が『神様』アンナ・パヴロワと同じだったため、日本で血縁関係等の誤解を避けるため、また敬意を評してその姓を使用する事を避け、結婚後の苗字「清水」とも似た響きにもあり、芸名である「サファイア」をロシア的にすることもせずに、使用し続けた。
それに対し、エリアナ・パブロワがたまたま同じ姓だったのを利用して、「従姉妹」としていた。
また、そもそもエリアナ・パブロワは
バレエ学校は卒業しておらず、
正式なバレエの訓練を
受けてはいない。
オリガ・サファイアは1907年、ドイツ騎士団の後裔の古い姓を持つ父とロシア人の母から生まれた。
彼女の父はドイツ人でありながら無宗教で、「宗教は大嫌い」であったために、彼女のギリシャ正教の信徒である母親と夫婦としての正式な登録ができず、生まれたオリガとその姉のエカテリーナは両親の名前が名乗れず、母方の叔父と叔母の姓であるイワーノヴナ・パヴロワを名乗る運命となった。
オリガ・サファイアの「わたしのバレエ遍歴」に写真が多数掲載されているのだが、どれもこれも美しいポーズである。
彼女の師であったフィヨードル・ロプホープは
オリガ・パーヴロワは、アンナ・パーヴロワの名を恥ずかしめないだろう。
と語っていたほどに期待されていたバレリーナであった。
彼女は昭和11年(1936年)に日本国籍を取得してから夫である清水威久氏と来日し、それから程なく日劇ダンシング・チームのバレエ講師となって20年ほどそこで活動した。
来日前には学生時代からの恩師セミヨーノフ(有望な男性舞踊家としてアンナ・パブロワから目をかけられていた)に師事し、日本で幾許かでも作品を持って公演できるようにと作品を与えてもらった。中でもアンナ・パブロワと同じ振付で「瀕死の白鳥」(つまりミハイル・フォーキンの振付)で伝授してもらえた事が
夢のような幸運
と、著書「わたしのバレエ遍歴」で綴っている。(一方のエリアナ・パブロワはアンナ・パブロワの振付は知らなかったのではないかと言われている)
また、彼女は生涯で3冊の本を書いているのだが、一冊目は昭和30年(1955年)に発行された「バレエ讀本」(バレエ読本)、2冊目は昭和55年(1980年)に書かれた「バレエを志す若い人たちへ」、そして3冊目は昭和57年(1982年)に出版された「わたしのバレエ遍歴」(※この本は彼女の死後に出版。)で、いずれもオリガよりもロシア語が上手いという話もあった夫の外交官の清水威久氏が注釈も入れながら翻訳をしている。
彼女もまた、家庭内はロシア語で十分であったためか、生涯日本語は上手くなかった。
彼女の教え子で有名なのが松山バレエ団創設者の松山樹子、谷桃子バレエ団の谷桃子、松尾明美(本の中では度々本名の松尾花子で登場)、そして、エリアナ・パブロワの門下生であった東勇作などがいる。
東勇作はエリアナ・パブロワの指導に疑問を感じ、オリガ・サファイアの元に移った日本バレエ界の先駆者の1人だが、1971年に61歳と言う比較的若い年齢で亡くなってしまっているためか、はたまた彼の冠をしたバレエ団が現存してないせいか、現代において知名度はそれほど高くない。
ただ、彼は日劇ダンシング・チームに移籍してからはオリガ・サファイアのパートナーとして踊っているし、ニジンスキーやリファールに憧れて、牧神の午後なども踊っている。
一般にエリアナ・パブロワの方が日本バレエ界では知名度があるように思うが、オリガ・サファイアは特に2冊目、3冊目では日本のバレエ界は厳しい旨、「職業バレエダンサー」としては成立しないゆえに、どんなに才能があっても諦めるのがいい旨を端々に書いているし、現に1冊目のバレエ読本を読んでオリガ・サファイアの元に手紙をよこした人たちに諦めて一般的な就職、結婚をすることを勧めている上に、直接地方からオリガの内弟子にしてほしいと懇願してきた人たちでさえ、内弟子制度は日本の制度で、自分にもそんな余裕はないからと説得して地元に帰らせている。
例えば、「わたしのバレエ遍歴」では、
バレエがこんなに世界中に根を生やしたことは、歴史にかつてないことです。
しかし、バレエの隆盛が、このまま長く続くと思うのは早計です。現に日本のバレエ界を見ましても、すでに行き詰まりのキザシがあらわれているようです。私はバレエ界の人たちとの交際も少ないし、バレエ公演を見に行くことも稀ですが、時たま誰かに逢いますと、たいてい悲観的な話を聞かされます。ヴェテランの人たちの大規模の公演にも、ほとんど進歩らしい進歩はなく、新進の人たちの多くは何かを意図し目指していることは感じられますが、芸術的理解力もテクニックも不足で、遠慮なしに申せば、芸術の創造に苦心していると言うよりは、道を見失い行きづまって、自暴自棄的にもがいているといった方があたりそうです。
と、この時代に核心を述べている。
また、この当時に職業バレエとしては国が保障するロシアバレエが一番安定しており、次は王室が後援しているロンドンのサドラーズ・ウェールズ・バレエ団(後のバーミンガム・ロイヤル・バレエ団)だとも語っている。
彼女は生涯にわたって、日本バレエのあり方を案じ、3冊の本を通してどんなに才能があっても今の状態の日本で、バレエを続けるのは得策ではないと言うことを書き続けていたが、現状は日本でのバレエ普及に努めたエリアナ・パブロワの思い通りになったのだろうと思う。
そして付け加えるなら、現代の私たちは、内弟子も含め、数年で独り立ちをさせた生徒が多かったエリアナ・パブロワを知っていても、バレエの道は厳しいことを自らの経験を通して知っていたオリガ・サファイア、日本でのバレエの普及に消極的だった彼女のことはそこまで知らない人も多いのではないかと思う。
その差は何か…
エリアナが裕福な家柄の人達を集め、その後彼らが自分のバレエ団を設立してバレエの裾野を広げたのに対し、オリガの門下生たちは、日劇ダンシング・チームという組織の下で集まったダンサー達であった。
彼女は続ける。
バレリーナは若いうちだけが花で、そろそろ人格的な深味ができてくる頃は、もう下り坂になってしまうのです。アンナ・パーヴロワは50歳まで全盛を誇っていたといいますが、あれは例外中の例外です。…(中略)いうまでもなく、四十歳を過ぎれば体力は衰えます。跳躍や回転などは、だんだん困難になります。…(中略)一たん鍛え上げたテクニックは、心掛けさえ謝らなければ、そうすぐに失われるものではありません。そればかりか、四十を過ぎたバレリーナには若いバレリーナにはない芸の深味が出てくるのです。
また、「バレエ読本」でも書かれている通り、川端康成の「舞姫」の一説にはこの「バレエ読本」の一行が出てくる。
ノーベル賞受賞作家である川端康成が参考にしたこのオリガの本だが、昭和30年に出版されてしばらくは、バレエ教室によっては「バレエ読本」を買うな!読むな!という指示が出ていたというから驚きである。
一体、誰がそんなことを言っていたのだろうかと、現代に生きる私は興味が湧いた。
今も昔も、「叡智」「経験」を持つ人への嫉妬は変わらないのだと思い知らされるエピソードだと思う。
初版は80年前の本ではあるが、現代の人々も学ぶ事が多いと思われるこの本を少しでも多くの人が目にする事ができないか、そんな思いに馳せる昭和へのタイムトリップだった。
オリガ・サファイアについてはもう少し深めて、さらに追記として別の記事で書くことにする。
| 名前 | 生年 | 没年 | バレエ団名等 | その他の情報 |
| エリアナ・パブロワ (霧島エリ子) | 1897 | 1941 | 鎌倉 パブロワ・バレエ・スクール | 貴族?旅芸人? 慰問先の南京で死去。日本に帰化 |
| オリガ・サファイア | 1907 | 1981 | 日劇ダンシングチームのバレエ教師 | 日本人外務官の妻 ロシアのダンサー |
| 橘秋子 | 1907 | 1971 | 橘秋子舞踊研究所(橘バレエ学校の前身) | 実家、宇都宮の家格の高い農家 |
| 服部智恵子 | 1908 | 1984 | 服部・島田バレエ団 | 父、ロシアで貿易商 |
| 東勇作 | 1910 | 1971 | 東勇作バレエ団 | エリアナ→オリガに師事 |
| 牧幹夫 | 1909 | 1970 | 牧阿佐美の父、インド舞踊研究 | 実父、宇都宮で弁護士 |
| 小牧正英 | 1911 | 2006 | 小牧バレエ団 | 岩手県の富裕層の家(醤油販売商店)、画家を目指 |
| 松尾明美 | 1918 | 2013 | 松尾明美バレエ団 | 1946の全幕白鳥でオデット/オディール。渋谷区生まれ |
| 島田廣 | 1919 | 2013 | 服部・島田バレエ団 | 韓国生まれ |
| 貝谷八百子 | 1921 | 1991 | 貝谷八百子バレエ団 | 父、九州の代議士、規格外の富豪 |
| 谷桃子 | 1921 | 2015 | 谷桃子バレエ団 | 父、兵庫県で外国の商社勤務 |
| 近藤玲子 (貝谷の姪) | 1923 | 2009 | 読売ランドの 近藤玲子水中バレエ団 | 宝塚で扇千景や淡島千景を指導 |
| 松山樹子 | 1923 | 2021 | 夫、清水正夫を団長として松山バレエ団設立 | 父、兄共に競馬調教師、鹿児島出身 |
| 薄井憲二 | 1924 | 2017 | 東大出身、東勇作バレエ団所属、元日本バレエ協会会長 | 東京生まれ、戦後、4年間のシベリア抑留 |
| ワトソン繁子 (笹田繁子) | 1926 | 2003 | 服部智恵子の娘、インド舞踊家 | 戦後間もない米国に渡り、米国市民権を取得 |
| 太刀川瑠璃子 | 1927 | 2008 | スターダンサーズバレエ団 | 成蹊小学校、東京女学館卒業 |
| 大瀧愛子 | 1928 | 2007 | 大瀧愛子バレエ・アート(タカラジェンヌの指導で有名) | 1953単身渡米バレエ留学 |
| 日本バレエ協会 | 1958発足 | 1946東京バレエ団が発端 | 1957のボリショイバレエに影響され、再集結 |
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