🩰バレエに一生を捧げた繊細だけど、力強い女性であった谷桃子
谷桃子、本名:上田桃子は1921年1月11日 に外資系の商社マンの父と師範学校出の教師の母の元、姫路市で生まれた。
従姉妹には舞台衣装デザイナーの緒方規矩子(1928年 – 2025年)がいる。
彼女は新国立劇場のオペラ、演劇、バレエやミュージカル、日舞、などの幅広い分野で衣装制作をしたが、特に谷桃子バレエ団の衣装を多く制作している。また、1962年のチャイコフスキー記念東京バレエ学校(1960年に設立、1964年財政難のため閉校、その後チャイコフスキー記念東京バレエ団となる)の「まりも」の衣装などを制作していることで有名。
日本共産党員の林広吉氏がソ連の国立バレエ学校の形態をそのまま日本に持ち込んだのがチャイコフスキー記念東京バレエ学校。本来ならば、国がやるようなことを林氏が筆頭となって軌道に乗せようとしたバレエ学校。
その生徒は、400人の応募者の中から開校時のオーディションによって、4歳から上は30歳まで、約150人が選出された。経験者対象クラスや、谷桃子や松山樹子ら指導者本人が生徒たちと共に入学するケースもあった。女優の桃井かおり氏も12歳でロイヤルバレエアカデミーに留学後、高校在学中はこの学校のプロ準備クラスに所属。
谷の家庭内ではクラシック音楽を流すような当時としてはモダンな裕福な家庭で、彼女の母は1922年、全国来日公演で来ていたアンナ・パブロワの神戸公演に谷が1歳?2歳?の時に、連れていった。その際に、谷が「瀕死の白鳥」を観て反応した事から、この子は芸術が分かるととても喜んだという。
東京への引越しをキッカケに「関西弁が恥ずかしかった」と後年懐古するほど無口な少女になっていた谷を案じた母親が、彼女が8歳の時に当時はまだポピュラーではなかったダンス教室「石井漠舞踊詩研究所」に入門させた。
石井漠と言えば、日本のモダンダンスの祖であり、伊藤道朗と共に日本のダンスの歴史の中では重要な人物である。
先のエリアナ・パブロワの項でも触れたように、チェケティメソッドのバレエ教育を受けたジョバンニ・ヴィットリオ・ローシーと帝国劇場がロンドンにて1912年に契約し、帝国劇場歌劇部のバレエ・マスターとなった際に、第一期生となったのが石井漠だった。
ただ、ローシーの指導法は厳しかったため、石井漠と喧嘩になることもままあり、1915年に、最終的には石井漠が独立し、日本のモダンダンスの基礎を作った。
しかし当初、石井漠は子供の指導をしていなかったため、谷桃子の母親が8歳の桃子にレッスンをしてほしいと言った際に、経験のない石井は躊躇っていたと言う。
従姉妹だった緒方規矩子氏曰く、
昔、あの人(谷桃子)はクラシックを踊っていたのではなかったの。石井漠さんの系統だから、もうモダン・ダンス、コンテポラリ―みたいなものよ。怪しい不思議な踊りを踊っていましたよ、面白かったよ。
文化学院を卒業した谷は、1943年(第二次世界大戦中)にオリガ・サファイアがバレエ講師をしていた日劇ダンシング・チームに入り指導を受けるようになり、そこで戦後、上海バレエ・リュスから帰国した小牧正英と出会う。
1946年8月の第一回、東京バレエ団「白鳥の湖」に出演。
1946年年末に小牧正英と結婚。半年で離婚。
その後は小牧バレエ団に所属しながら、第3回公演『コッペリア』(1947年10月)では離婚したばかりの小牧と共に主演を果たし、1948年も同団で『白鳥の湖』に主演した。
1948年バレエ団結成準備団体として前身「東京バレエ研究会」を結成後、独立。
1950年に谷桃子バレエ団を結成、以降『ジゼル』を200回以上踊り、谷桃子の代名詞となる。
※53歳時の引退公演もジゼル。
1950年当時、バレエ映画『赤い靴』が全国ヒットし空前のバレエ・ブームで国内でバレエ教室も多く開かれる中、主演の英国バレリーナモイラ・シアラー(サドラーズ・ウェルズ・バレエ団、現ロイヤル・バレエ団に在籍していた)から、谷が日本を代表するバレエダンサーであり、タイミング的に小牧との離婚後だったため、、映画と同色の赤いトウシューズを贈られた結果、谷のブロマイドが売れ、地方公演が相次いぐなど、日本各地で引っ張りだこのバレエダンサーとなった。
🔳英国のバレエの歴史:
1931年にロンドンでバレエ・リュスで活躍していたニネット・ド・ヴァロアがヴィック・ウェルズ・バレエを始めるまで国立のバレエ団は存在せず。
1942年にサドラーズ・ウェルズ・バレエ団となり、完全な私立のバレエカンパニーが始まり。
1956年にサドラーズ・ウェルズ・バレエ団が2つのバレエ団:ロイヤル・バレエ団とサドラーズ・ウェルズ・ロイヤル・バレエ団という王立バレエ団になった。
1954年、そんな大人気絶頂だった谷だが、パリへ留学。しかし、本場のバレエと比べて日本の水準の低さに打ちのめされ、悩み、ノイローゼ気味になって帰国。
しかし、周囲の声もあり、帰国した年に谷桃子バレエ団の全幕「白鳥の湖」を主演公演。
その後、1969年には青年芸術祭’69主催公演 で小牧正英と合同バレエ特別公演で、「コッペリア」や「レ・シルフィード」を踊っている。小牧正英の経歴の中でも掲載したが、谷桃子との共演は後々まで多く、離婚はしてもダンサー同士、認め合う仲だったのではないかと推測する。
1974年、53歳で腰の軟骨が消耗によるドクターストップ。
2003年には日本バレエ協会の会長に就任している。
後進の育成に専念してからは、現谷桃バレエ団芸術監督の高部尚子氏らを見ているが、高部氏曰く、
一見ふんわりされてるけれど、芯は強くて踊りに対して非常に厳しい人でした。私は先生が亡くなるまで一度も褒めていただいたことはなかったです。
高部氏は実際、谷が直接的な指導者ではないが(高部氏の直の指導者は小野正子氏)、それでも現在、谷桃子バレエ団を引き継ぎ、芸術監督としての責務を全うしているのは多くの人が知るところである。
彼女自身は1984年のローザンヌ国際バレエコンクールでスカラーシップを受賞し、ロイヤルバレエアカデミーに1年間、留学しているが、学校の引き留めがあったにも関わらず、親の反対(高校は卒業するようにという理由)で帰国に至っている。
その後は同バレエ団で主演を務め続けている。
また、私世代のバレエ好きな人なら誰でも知っているであろう1986年の「第1回青山バレエフェスティバル」でも夫の坂本登喜彦氏と≪リゼット≫よりパ・ド・ドゥを谷桃子振付で、≪ラ・シルフィード≫よりパ・ド・ドゥを牧阿佐美振付で踊っているし、その後も何度もこのフェスティバルには出演している日本のトップクラスのバレエダンサーだった。
ちなみに、青山劇場・青山円形劇場というのは、1985年に開館し、2015年3月末に老朽化を理由に閉館した劇場で、ここでは毎年青山バレエフェスティバルが開催されていた。1989年のアジア初開催のローザンヌ国際バレエコンクールもここであり、熊川哲也氏をはじめ、6名が決勝に進出した。子供だった私は青山劇場は日本の至宝のバレエダンサーたちの踊りが見れる舞台であって、毎年ワクワクしていたのだが、そんな記憶がある人たちは少なくないのではないだろうか。
現在はYoutubeで人気のある谷桃子バレエ団だが、その歴史は古く、すでに75年以上。
内気だった少女が「踊り」に出会って、一生をかけて日本でバレエを広めた歴史に辿り着く。
戦争中にも関わらず、踊りに情熱を燃やし、日劇ダンシングメンバーの一員として、(日劇慰問隊)石井漠にゆかりがあるダンサーたちが日本全国、そして当時日本の占領下にあった中国で踊り、進駐軍のアイドルとして活躍していた時期もあった。(その当時は上田桃子として活動していたらしい。)その後は結婚、離婚があり、憔悴した中でバレエ団を立ち上げ、その後も歩みを止めず、自らも戦後9年足らずのパリに赴き、メモをとり続けるなどして勉強し続けた姿が美しいと感じた。
その後も53歳という年齢までバレエダンサーとして活躍するなど、一生涯バレエへの情熱が途切れなかった。
また、第二次世界大戦という過酷な時代を生き抜いた1人の繊細だけれど、逞しい女性の姿浮かび上がる日本のバレエ界の歴史探求であった。
| 名前 | 生年 | 没年 | バレエ団名等 | その他の情報 |
| エリアナ・パブロワ (霧島エリ子) | 1897 | 1941 | 鎌倉 パブロワ・バレエ・スクール | 貴族?旅芸人? 慰問先の南京で死去。日本に帰化 |
| オリガ・サファイア | 1907 | 1981 | 日劇ダンシングチームのバレエ教師 | 日本人外務官の妻 ロシアのダンサー |
| 橘秋子 | 1907 | 1971 | 橘秋子舞踊研究所(橘バレエ学校の前身) | 実家、宇都宮の家格の高い農家 |
| 服部智恵子 | 1908 | 1984 | 服部・島田バレエ団 | 父、ロシアで貿易商 |
| 東勇作 | 1910 | 1971 | 東勇作バレエ団 | エリアナ→オリガに師事 |
| 牧幹夫 | 1909 | 1970 | 牧阿佐美の父、インド舞踊研究 | 実父、宇都宮で弁護士 |
| 小牧正英 | 1911 | 2006 | 小牧バレエ団 | 岩手県の富裕層の家(醤油販売商店)、画家を目指 |
| 松尾明美 | 1918 | 2013 | 松尾明美バレエ団 | 1946の全幕白鳥でオデット/オディール。渋谷区生まれ |
| 島田廣 | 1919 | 2013 | 服部・島田バレエ団 | 韓国生まれ |
| 貝谷八百子 | 1921 | 1991 | 貝谷八百子バレエ団 | 父、九州の代議士、規格外の富豪 |
| 谷桃子 | 1921 | 2015 | 谷桃子バレエ団 | 父、兵庫県で外国の商社勤務 |
| 近藤玲子 (貝谷の姪) | 1923 | 2009 | 読売ランドの 近藤玲子水中バレエ団 | 宝塚で扇千景や淡島千景を指導 |
| 松山樹子 | 1923 | 2021 | 夫、清水正夫を団長として松山バレエ団設立 | 父、兄共に競馬調教師、鹿児島出身 |
| 薄井憲二 | 1924 | 2017 | 東大出身、東勇作バレエ団所属、元日本バレエ協会会長 | 東京生まれ、戦後、4年間のシベリア抑留 |
| ワトソン繁子 (笹田繁子) | 1926 | 2003 | 服部智恵子の娘、インド舞踊家 | 戦後間もない米国に渡り、米国市民権を取得 |
| 太刀川瑠璃子 | 1927 | 2008 | スターダンサーズバレエ団 | 成蹊小学校、東京女学館卒業 |
| 大瀧愛子 | 1928 | 2007 | 大瀧愛子バレエ・アート(タカラジェンヌの指導で有名) | 1953単身渡米バレエ留学 |
| 日本バレエ協会 | 1958発足 | 1946東京バレエ団が発端 | 1957のボリショイバレエに影響され、再集結 |
- 🩰日本バレエ界の未来を本気で考えたロシア出身の日本人バレリーナ、オリガ・サファイア
- 🩰スカラーシップにおけるバレエ留学。それ以外の諸費用をどう補うか。
- 🩰バレエに一生を捧げた繊細だけど、力強い女性であった谷桃子
- 🇫🇷今のフランスの現状を見て、将来の日本バレエ界に思うこと
- 🇫🇷来年度は大学院生?Mon Master(私の修士)と言うサイトで修士出願して
- ❤️子供達のこと
- Yoshikoの日記
- 🇩🇰デンマーク
- 🇫🇷フランスの中・高校生活(現地校)
- 🇫🇷フランス生活
- 🇯🇵🇫🇷国際結婚
- 🇯🇵🇫🇷多言語(日仏英語)子育て
- 🐴田舎暮らし
- 📚子供の教育
- 🩰バレエ





