🩰出生の秘密が彼女の人生を翻弄させた服部智恵子の娘、バレリーナ、ワトソン繁子
タイトルにもあるように、彼女の父親は分かっていない。
それは、18歳で彼女を身籠った母である服部智恵子が生涯に渡り明かさなかったためだ。
ワトソン繁子、旧姓笹田繁子は繁子を妊娠中の母、服部智恵子と母の結婚相手である笹田数雄の元で1926年に生まれ、笹田数雄を父として育つ。しかし、彼女の容姿はとても西洋的であり、当時の日本人の骨格ともかけ離れていた。
後年、歯医者で言われたのが「あなたの顎の形は東洋人のものではない」と言う話だった。
そして、2度目の結婚でCIAに勤める夫、スタンリー・ワトソンと結婚したのだが、その後、夫の職業の関係、また、息子が生まれる関係で国籍を変更する必要があった。
その際に、通常4、5年かかる市民権獲得を早めるために父親の国籍を知りたいと、母である服部智恵子に問いただしたようだが、それだけはどうしても明かすことはできないと、結局、亡くなるまで知ることができなかった。
服部が結婚した笹田数雄については先日の服部智恵子についての記事でも書いたが、愛情深い人で、明らかに自分の繋がった娘ではない繁子を自分の娘として育てるのはもちろんのこと、その後、服部との間に生まれた数人の子供達の中でも繁子を溺愛していたようだった。戦時中、顔立ちのせいで日本軍から聞かれる度に、父として、自分の娘だと言って彼女を守り続けた。
繁子自身も笹田の娘として大きな愛情に包まれて育ったと懐古しており、その懐の広さに驚嘆する。もしかしたら、1930年当時としては、血の繋がっていない親子、養子縁組、妾の子等、上流社会の中では多かった時代なのかもしれない。
ちなみにそれよりもだいぶ前、江戸時代だった1840年に生まれで、現在1万円札の顔となっている渋沢栄一は正妻以外に妾がおり、嫡子、非嫡出子、合わせて17人以上の子供がいたが、明治14年までは旧法として妾は合法だったと法務省の資料に書いてあるので、渋沢栄一の時代、彼が40歳過ぎまでは法律で合法であった。ちなみに渋沢が68歳の時にも子供が産まれている…。
話は戻って、繁子が15歳の時に母である服部智恵子が繁子をはじめとする子供達と服部の母を残して笹田家から去り、島田廣(島田は服部よりも11歳年下のため、繁子とは7歳差)と住み始め、その後、服部・島田バレエ団を設立した。
現代で考えれば、もうちょっとあり得ない話だが、時は昭和初期。現代の感覚ではない。(とは言え、日本のバレエ界のシステムはこの頃からアップデートされてない現実…)
いろいろなことが今より緩かったのだろう。繁子も育った環境や自分の顔立ちが西洋人に近いことから子供の頃は
「鼻高、鼻高!」といじめられたようだが、そんな事を気にもしない令嬢に育っていたため、母との関係も仲が悪くなることはなかったようだ。それどころか、1957年のボリショイバレエ団来日のきっかけを作った、日本政府の通訳兼秘書としてロシアに渡った母のことを生涯尊敬していたようだ。
それには繁子の育ての父の笹田の愛情が大きく関わっていたに違いない。彼は智恵子との離婚後、バレエのために繁子を服部のバレエ教室に送った際に、不倫相手だった島田(元新国立劇場バレエ芸術監督)に対して、金銭の援助までも申し出たと言う…。
この本を読んでいて、何で笹田の元を服部が去ったのかは全く理解不能な私だったが、後に島田が、自分と服部の関係は
「彼女と僕との間はボーヴォワールとサルトルの関係だ、と言えば一番分かりやすいと思います。」
とインタビューで答えていたと言う一文があるし、繁子自体も
「恋の多い女性でした。父が会社から帰宅するまでには、とても上手に必ず家にいた母だったけれど。」
と母のことを回想している事から、恋愛に対して大いにオープンな考えを持つ人だったのだろうと言うことは伺える。そして、それは、ロシア人を母に持つと言う話がある(真偽は分からないが、繁子も母がハーフであるかのように語っている章がある)と言うくらいだから服部の父(妻は日本人)、繁子の祖父も恋愛に対しはオープンなやり手の毛皮商人だったのだろう。
繁子自身は当時の大臣(松田竹千代、文部大臣、郵政大臣を歴任した人物)の娘や三島由紀夫と交流があり、その友人の父(大臣)の河口湖の別荘で2人目の夫であるスタンリーと出会っている。
1人目の夫は日系アメリカ人で戦後アメリカから派遣されて日本に来た際、繁子と出会い、娘のエリアナをもうけたが、アメリカへの帰国を余儀なくされ、その後、離婚に至ったという。
エリアナと言う名はもちろん恩師、エリアナ・パブロワの名が由来だが、繁子達令嬢にとって、エリアナ・パブロワからバレエを習うと言うのは、本によると、
”東京で選ばれた階級の純粋培養型の少女達が華やかに育っていた。”
環境であり、戦前の一般庶民の感覚とはかけ離れていた。
だから、戦後、繁子がスタンリーと河口湖の別荘で出会った際にはすでに子持ちであったが、(上流階級というのは生活のスタイルが庶民とまるで違うため、)娘のエリアナは乳母に預け、自分は社交界で交流を広げるのが一般的だったようである。
1955年、「令嬢ジュリー」を服部・島田バレエ団で踊り、一躍時の人となり、このバレエ団のドル箱となっていた繁子だったが、その後、米国へ帰国したスタンリーを追って、娘エリアナを日本に残し、単身でNYのバレエ学校に通う目的で渡米し、約1年後、当時離婚協定中だったスタンリーの離婚が成立してすぐにメキシコで結婚式を行なった。
当時は
1ドル=360円が固定であった時代。
そして、戦後であり、特に日本人対して偏見もあった時代で差別も多かった。その中で、少なくない日本人女性が駐日中の米軍兵と恋に落ち、海を渡った事実は今日でも多くの人が知る歴史的事実だと思うが、繁子も米軍兵ではないが、CIAに勤めていたスタンリーと出会い、恋に落ちてアメリカに渡った日本人女性の1人である。
ちなみに、繁子のNYのバレエ学校の学費は母である服部が負担(その頃には父、笹田は亡くなっている)したようだが、繁子のスタンリーとの結婚に対しては反対であったと言う。
メキシコで結婚式を行った理由としては繁子のビザが1年ビザだったため、アメリカだと間に合わず、手っ取り早くビザが取得できるのがメキシコであった。
その後、夫スタンリーの仕事の都合でパキスタンに行くことになるが、そこで繁子のインド舞踊ダンサーとしての道が開けた。アメリカ大使館員の妻として、日本がバックグラウンドにある妻としての交流をこなしながらインド舞踊の魅力に惹かれ、日本から連れてきた乳母にエリアナと息子の世話を任せ、単身3ヶ月ほどインドにダンス修行に行くほどだった。
ちなみにパキスタンでの生活では13人の召使いがいた生活であったのだが、ムスリムの多いパキスタンとヒンドゥー教徒の多いインドの狭間で、政治的に厳しい局面を迎えていて、その中でのアメリカ大使館員の妻である繁子の行動には驚きを隠せない。
「芸術の世界に国境はない。」
それが繁子の強い信念だった。
また、娘のエリアナは家庭教師のおかげで美しい英語が身に付き、英国のエルム・ハースト・バレエ・スクールに12歳で進学許可が降りたそうである。この学校は当時、全寮制で、いずれ社交界デビューをする令嬢のためにダンスと表現技術を教える学校として知られており、庶民に開かれた学校ではなかった。健康管理の徹底、特に容姿を保つための食事の配慮などがあったという。
その後、現上皇様と奥様の美智子さまがパキスタンを訪問された時には繁子がインド舞踊をお二人の前でアメリカ大使館員の妻として披露し、美智子様も繁子の踊るインド舞踊の首の動きを真似るなどされていたと言う逸話が残っている。
その後、彼らはNY、メキシコ、ベトナムなどに赴任したが、NYでは東洋人である繁子に対して差別的なことが多かったと言う。それは彼らが契約したマンションに住む際にもあり、白人以外の居住者を認めていなかったそのマンションでは繁子達ファミリーの居住を許可するか、否かの住民投票が行われたと言うくらいの上流社会の厳しい現実であった。
NYに住んでいた頃にはエリアナが今度はヴァーモントのベニントン・カレッジに入学するために戻って来ており、夫であるスタンリーがエリアナのために私塾のような形で熱心に勉強を教えていたと言う。
その後、エリアナは優秀な成績を収め、大学を卒業している。また、息子は日本の繁子の妹家族に預けられたり、スタンリーの姉妹に預けられたり、転々と居住地が変わっているようだが、それも当時の上流階級にとっては珍しいことではなかったのかもしれない。
メキシコに移り住んだ時期はちょうど世界中で学生運動が盛んに行われた1968年頃、日本でもフランスでも多くの学生達がこの学生運動に参加したが、メキシコも例に漏れず、軍が治安圧する事態となっていた。
※日本では三島由紀夫と芥正彦による東大共闘での討論が有名。
それでも繁子はスタンリーの退職後、晩年を過ごす場所として選び、そこで晩年の生きがいをメキシコのバレエスクールに求め、2003年に77歳で亡くなっている。
こうやって、戦前、戦後の日本のバレエ界に貢献した人たちのここの歴史を追っていくと、そこには壮大な物語があり、一般庶民では考えられないような戦時中の過ごし方であったり、家族の在り方があったのだと改めて考えさせるきっかけとなる今日この頃。
| 名前 | 生年 | 没年 | バレエ団名等 | その他の情報 |
| エリアナ・パブロワ (霧島エリ子) | 1897 | 1941 | 鎌倉 パブロワ・バレエ・スクール | 貴族?旅芸人? 慰問先の南京で死去。日本に帰化 |
| オリガ・サファイア | 1907 | 1981 | 日劇ダンシングチームのバレエ教師 | 日本人外務官の妻 ロシアのダンサー |
| 橘秋子 | 1907 | 1971 | 橘秋子舞踊研究所(橘バレエ学校の前身) | 実家、宇都宮の家格の高い農家 |
| 服部智恵子 | 1908 | 1984 | 服部・島田バレエ団 | 父、ロシアで貿易商 |
| 東勇作 | 1910 | 1971 | 東勇作バレエ団 | エリアナ→オリガに師事 |
| 牧幹夫 | 1909 | 1970 | 牧阿佐美の父、インド舞踊研究 | 実父、宇都宮で弁護士 |
| 小牧正英 | 1911 | 2006 | 小牧バレエ団 | 岩手県の富裕層の家(醤油販売商店)、画家を目指 |
| 松尾明美 | 1918 | 2013 | 松尾明美バレエ団 | 1946の全幕白鳥でオデット/オディール。渋谷区生まれ |
| 島田廣 | 1919 | 2013 | 服部・島田バレエ団 | 韓国生まれ |
| 貝谷八百子 | 1921 | 1991 | 貝谷八百子バレエ団 | 父、九州の代議士、規格外の富豪 |
| 谷桃子 | 1921 | 2015 | 谷桃子バレエ団 | 父、兵庫県で外国の商社勤務 |
| 近藤玲子 (貝谷の姪) | 1923 | 2009 | 読売ランドの 近藤玲子水中バレエ団 | 宝塚で扇千景や淡島千景を指導 |
| 松山樹子 | 1923 | 2021 | 夫、清水正夫を団長として松山バレエ団設立 | 父、兄共に競馬調教師、鹿児島出身 |
| 薄井憲二 | 1924 | 2017 | 東大出身、東勇作バレエ団所属、元日本バレエ協会会長 | 東京生まれ、戦後、4年間のシベリア抑留 |
| ワトソン繁子 (笹田繁子) | 1926 | 2003 | 服部智恵子の娘、インド舞踊家 | 戦後間もない米国に渡り、米国市民権を取得 |
| 太刀川瑠璃子 | 1927 | 2008 | スターダンサーズバレエ団 | 成蹊小学校、東京女学館卒業 |
| 大瀧愛子 | 1928 | 2007 | 大瀧愛子バレエ・アート(タカラジェンヌの指導で有名) | 1953単身渡米バレエ留学 |
| 日本バレエ協会 | 1958発足 | 1946東京バレエ団が発端 | 1957のボリショイバレエに影響され、再集結 |
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