🩰日本バレエ界の母、エリアナ・パブロワの貢献と負の遺産

多くを語らない、振り返らないことを美徳とする日本バレエ界にあって、ここ最近の私は先人たちの軌跡をガッツリ掘り返している。

それによって、先人たちは日本のバレエ界をあえて現状のような稼げない状態にしようとしたわけではなく、小牧正英氏や島田廣氏(1997年の新国立劇場バレエ芸術監督就任の際に文化庁にお願いした旨を薄井氏がインタビュー記事で語っているが、服部・島田バレエ団を運営時に同じ考えだったかは分からない)のように「職業バレエ」になるように努力した人達もいることがだんだん分かってきた。

ではなぜ、現代の日本バレエ界は

「芸術家は貧しくて当然」

と言う概念を抱くようになったのだろう。

今回は元ロシア人、日本国籍のエリアナ・パブロワについて深掘りしてみた。

彼女は日本に”バレエ”を浸透させた人物であり、日本のバレエ界の”母”とも言われている人物であり、先にブログで書いた、服部智恵子貝谷八百子薄井憲二氏の師匠東勇作など、彼女の弟子の数は多くいる。また、現在でも彼女の孫弟子にあたる人は多く、彼女の功績を称えることはあっても実際に日本のバレエ界の及ぼしたその後の影響について語る者はいない現状が今日でも続いている。

日本のバレエの始まりは、ミス・ミークス、その後、イタリアでチェティから直接教えを受けたローシーがその10年以上前に来日し、バレエの伝道を試みたことに帰する。

しかし、日本の文化に根付かせることはできず、その後、エリアナ・パブロワが

日本の慣習である家元制度を利用し、
バレエを根付かせることに成功した

それは、日本の「家元制度」は、茶道や華道などで受け継がれ、「職業」として伝導したい場合には、見方によれば、負の遺産とも言えるものである。

だが、一方で彼女には人を惹きつける魅力が多分にあり、エリアナ自身、技術面では足りない面があったのを”表現力でカバーする”など日本人の心を惹きつけていくのだった。

例えば、前回紹介した服部智恵子の娘、笹田繁子(ワトソン・繁子)は、エリアナ・パブロワに敬意を込めて、最初の日系二世との結婚で生まれた娘の名を「エリアナ」とするなど、エリアナを慕う人たちは後を絶たない。

しかし、川島京子著書の”日本バレエの母 エリアナ・パブロバ”によると、

バレエスクール開校当初に使用していた「帝室バレエ学校およびマリインスキー劇場出身」という経歴が誤りである

と言う。

川島京子著書、”日本バレエの母 エリアナ・パブロバ”は、著者が9年間第一資料を探し続け、中国、ロシア、ウクライナにも飛びたって、彼女の経歴や生い立ち、その後の日本でバレエを広めた功績を綴る数多くの歴史が詰まった信憑性の高い良本である。

上にも述べたように、日本のバレエの歴史は1919年のエリアナ来日から遡ること12年前の1907年(明治40年) 帝国劇場洋舞指導者となったミス・ミクスの来日によって始まる。

日本洋舞史年表1参照のこと

その後、チェケティメソッドのバレエ教育を受けたジョバンニ・ヴィットリオ・ローシーと帝劇がロンドンにて1912年に契約し、帝国劇場歌劇部のバレエ・マスターとなった。

第一期生として、石井林郎(石井漠)、沢美千代(沢モリノ)がいる。

しかし、ローシーの指導法は厳しく、石井漠と喧嘩になることもままあり、1915年に、最終的には石井漠が独立し、日本のモダンダンスの基礎を作った。つまり、日本の西洋ダンスの歴史はバレエよりも先に、モダンダンスが根付いたということになる。

ローシーはその後、帝劇を去り、日本からクラシックバレエの講師が消えたが、1922年にアンナ・パブロワが来日し、日本中で公演した結果、日本中で賞賛の嵐だった

ここで登場するのが、
エレーナ・ニコラエヴナ・トゥマンスカヤ=パヴロワこと、エリアナ・パブロワ。

エリェナ・パァヴロヴァ顕彰会」(名誉会長:故島田廣、会長:故牧阿佐美)によると、エリアナは、

ロシアのバレリーナだったが、1917年のロシア革命後日本に亡命し、1924年(大正13年)から鎌倉の七里ヶ浜に住んだ。

とあるが、日本に来たのは1919年(?と言われている)、ロシア革命から逃れ、他のロシア人同様、単純に欧米行きのビザを待っていたからだったようで、実際はその頃は生活のために社交ダンスを教えるにとどまり、1924年には一旦、日本を離れている。

ただ、その後、1925年に日本に戻り、鎌倉にバレエスクールを開校し、当時、日本で知名度が高かったアンナ・パブロワと同じ名字の”パブロワ”を利用して、

アンナ・パブロワの従姉妹

と称していたようだが名字が同じだけで、

血縁関係にはない

また、エリアナ・パブロワは貴族の出身ではあるらしいが、ロシアでの生活は豊かではなく、アカデミックなバレエを習ったこともなく、旅芸人の一員として踊りで一家を支えていたらしい。また、妹のナデジダが旅公演で回っていた際に出会った身寄りのない子供で、後にエリアナの母が養女として迎え入れたという話もあるが、その真偽は分からない

当時の日本人には調べる術もないので、アンナ・パブロワの影響もあってか、現在の日本のバレエ界の基礎を作った日本人の先人たちが門下生となった。

その際にエリアナ・パブロワが使用した方法が、日本の花道や茶道のような家元的な制度であった。師弟関係を重視したそのやり方で、多くの富裕層、文化人、政界人の令嬢を集めることに成功した。

そこに集まった一期生が服部智恵子、東勇作、それから、橘秋子、牧幹夫、貝谷八百子などであるが、家柄を調べてみると一様に(東勇作については詳細不明)華族などの上流階級、裕福層の出身者たちであり、現在のように一般層の手に届くものではなかった。

服部智恵子の娘であり、1936年に8歳でエリアナの元に入門した笹田繁子などの上流階級の子供たちも多くいた。彼女の伝記の中で、日本では富裕層しかできないバレエが、その後訪れた留学先のニューヨークで、すでにはいろんな階級の人たちがバレエに明け暮れていたと驚きを持って書かれている。

この富裕層を取り入れるシステムは、ルース・ベネディクト著の「菊と刀」でも語られている日本特有の「恥の文化」をうまく利用したものであり、現代の日本のバレエ界においても「お金がないからできない。」という考えは一般的に恥ずべき事と思う人たちが後を絶たず、無理をしても師匠に支払いをするという制度が成り立っている。

それで、エリアナがいち早く、そこに目をつけたのであろう。ただ、東勇作についてはどんな家系であったのかの資料が見つからなかった。彼はアンナ・パブロワの踊りに魅了された1人であった事だけは確かなようだ。

ただ、現代においてもそうであるように、その当時だとさらに貴重な「男子」であり、公演が多かったエリアナの周辺の荷物持ちなどの重労働で活躍する場面の多かったと言う。

しかし後に彼は、エリアナの技術面での指導がもの足りず、1936年に日本人外交官の夫と共に来日し、日劇のダンシングチームとバレエ講師となったオリガ・サファイアの元でバレエの訓練を受け始め、その後、オリガ・サファイアの相手役を務めるまでになった。

そして、東勇作バレエ団を作り、自らが主演して多くの松山樹子や松尾明美、薄井憲二などのバレエダンサーを輩出した。

本名オリガ・パブロワは、ロシアできちんとしたアカデミックなメソッドを学んだバレエダンサーで、彼女の師匠から「日本にだけは行くな!」と忠告されていたと言う。

それは上記で書いたようなローシーの失敗があり、日本にはバレエを受け入れる土壌がないと思われていたからに他ならない。それにも関わらず、オリガ・サファイアは外交官の夫の清水威久と共に日本に渡る際に帰化し、清水みどりという日本名を名乗っていて、晩年は夫の助けを借りながら本を3冊書いている。

話をエリアナ・パブロワに戻すと、鎖国が終わって明治時代になると、

「散切り頭を叩いてみれば文明開花の音がする

とよく言われるように、

西洋文化の流れは上流階級で進んでおり,男性はスーツや燕尾服、女性はブラウスやスカートを組み合わせた洋装が流行していた。エリアナがバレエ教室を始めた当時は大正時代の終わり。つまり、その波がエリアナの成功を後押しした。

日本人も西洋化の波にも乗り、着物と違ってシルエットが顕になる洋服の着こなし方を知らない若い女性たちがエリアナ母娘の美しい洋装、スタイル、身のこなし方に魅了されたのは言うまでもない。また、洋装の場合の所作をどうするとか、美しい動き、身のこなしもエリアナはバレエの稽古を通して宣伝した。

昭和初期になるとさらに洋風のものが持て囃され、歌舞伎に代わって、新しい芸事としてバレエが注目を集め、そこに文化人や財界人・資産家の子女が多く集まって行った。

時代の流れ、タイミングがエリアナが成功した秘訣でもあった。ローシーのように時代が早過ぎず、日本の軍国主義化は進んでいたものの、第二次世界大戦の前であり、富裕層にはゆとりがあった時代であった。

彼女はまた、3年ほど経つとお免状を与え(華道や茶道もお免状)、のれん分けのような形で独立を促し、エリアナを頂点としたネットワークを広げていったのである。

そのため、21世紀現在の日本バレエ界が戦国時代さながら、個々のバレエ団の競争を熾烈化させ、その後、バレエ団を始めたエリアナの内弟子達が彼女の家元制度のやり方に従って行ったのが現在の日本のバレエ界の現状に通じているようだ

唯一、1人、小牧正英だけは海外で職業としてのバレエを踊って帰国したため、当時スポンサーであった東宝にバレエが職業として成り立つよう掛け合ったが、その小牧の願いも、東宝社長が死去により叶わぬ夢となった。

ところで、エリアナが日本でバレエを教え始めた頃から遡ること約55年ほど前のフランスは、1870年代の「コッペリア」を最後に普仏戦争(1870−71)の影響などもあって、バレエはだんだん衰退の一途を辿っていた

エドワード・ドガが踊り子たちを描いたのもこの時期で、そこから1909年のディアギレフ率いるバレエ・リュス(ballet russe1909−1929)がヨーロッパ各地に衝撃を与えるまではパトロン付きの踊り子がパリ・オペラ座バレエでも多く見られていた。(と言うのは先日、フランスのテレビでやっていたオペラ座の歴史でガイドさんが語っていた。)

余談だが、パリで有名な画家、藤田嗣治がパリに初めて行ったのは1913年で、モンパルナスに住み始め、1920年代にはサロンで高い評価を受けてパリの画家界のスターに駆け上った。

第二次世界大戦中、日本に帰国していた彼が、戦後、1946年の白鳥の湖で舞台美術を請け負ったのは、甥の蘆原英了からの依頼ということもあるだろうが、パリでのバレエ・リュスの影響もあったのかもしれない。

エリアナの指導は徹底して厳しく、時に口より先に手や足が飛んできたと言う。また、日本語が最後まで上達しなかったため、口悪く罵ることもあったようだ。

それでも、日本でのバレエの普及に努め、内弟子たちを鼓舞し、日本にバレエを根付かせた功績は何事にも変えられることではなく、それは帰化して”霧島エリコ”となった後に、

「自分も日本人だから。」

と言う理由で周囲の反対を押し切って南京に赴き、軍人たちを慰問訪問した事でも彼女の志が分かる。

しかし、その慰問中の1941年5月、破傷風の悪化により37歳で帰らぬ人となってしまったのは、日本のバレエ界にとっての痛手となった。

その年の12月に真珠湾攻撃から始まった太平洋戦争を乗り越えて、彼女の内弟子達が1946年の全幕「白鳥の湖」を成功させるのだが、そこに集まったのは小牧正英以外はエリアナ・パブロワの内弟子(服部・島田、貝谷、東)であった。

名前生年没年バレエ団名等その他の情報
エリアナ・パブロワ
(霧島エリ子)
18971941鎌倉
パブロワ・バレエ・スクール
貴族?旅芸人?
慰問先の南京で死去。日本に帰化
オリガ・サファイア
(清水みどり)
19071981日劇ダンシングチームのバレエ講師日本人外務官の妻
ロシアのダンサー。日本に帰化
橘秋子19071971橘秋子舞踊研究所(橘バレエ学校の前身)実家、宇都宮の家格の高い農家
服部智恵子19081984服部・島田バレエ団父、ロシアで貿易商
東勇作19101971東勇作バレエ団エリアナ→オリガに師事
牧幹夫19091970牧阿佐美の父、インド舞踊研究実父、宇都宮で弁護士
小牧正英19112006
小牧バレエ団岩手県の富裕層の家(醤油販売商店)、画家を目指
松尾明美19182013松尾明美バレエ団1946の全幕白鳥でオデット/オディール。渋谷区生まれ
島田廣19192013服部・島田バレエ団韓国生まれ
貝谷八百子19211991貝谷八百子バレエ団父、九州の代議士、規格外の富豪
谷桃子19212015谷桃子バレエ団父、兵庫県で外国の商社勤務
近藤玲子
(貝谷の姪)
19232009読売ランドの
近藤玲子水中バレエ団
宝塚で扇千景や淡島千景を指導
松山樹子19232021夫、清水正夫を団長として松山バレエ団設立父、兄共に競馬調教師、鹿児島出身
薄井憲二19242017東大出身、東勇作バレエ団所属、元日本バレエ協会会長東京生まれ、戦後、4年間のシベリア抑留
ワトソン繁子
(笹田繁子)
19262003服部智恵子の娘、インド舞踊家戦後間もない米国に渡り、米国市民権を取得
太刀川瑠璃子19272008スターダンサーズバレエ団成蹊小学校、東京女学館卒業
大瀧愛子19282007大瀧愛子バレエ・アート(タカラジェンヌの指導で有名)1953単身渡米バレエ留学
日本バレエ協会1958発足1946東京バレエ団が発端1957のボリショイバレエに影響され、再集結
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Yoshiko

元シングルマザー&元クラシックバレエスタジオ運営・代表講師。フランスの大学に行くため一念発起して長期学生ビザ(visa étudiant)を取得して母娘でフランス移住🇫🇷一度目のフランス長期ビザ却下をえて、現在パリ郊外で田舎暮らし中。

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