🩰森下洋子さんを育て、武者小路実篤が資金面での支援者となった橘バレエ学校創始者、橘秋子
3歳で体が弱いからお医者さんに何かスポーツをやりなさいと言われて、当時近所に出来たばかりのバレエ教室に通い出してからバレエの神様に長く支え続けられている森下洋子さん。
彼女がいなかったら今の日本のバレエ界はここまで盛り上がっていなかったかもしれない。でも、そんな彼女を12歳から見続けきたバレエ講師、橘秋子の存在なしには彼女の成功は語れないと思う。
森下さんが単身で上京して通い出したお教室が橘バレエ学校だった。それまでも広島から何度も電車で上京しては指導を受けていたが、完全に単身で移り住んだのは12歳。
彼女のとあるインタビューによると、家計は楽ではなかったが、広島に住むお母様がバレエ代を捻出するため、洋食店『キッチンもりした』を始め、それが評判となって広島カープの選手が来店するようなお店に発展したと言う。
たまに、お母様が1人で上京する際も週1の休みを利用して土曜日の夜行列車に乗り、日曜日の朝に東京について、またその中に広島に帰る電車に乗るという事をして森下さんの舞台生活を支えたのだと言う。(広島から東京まで夜行列車で片道約12時間)
そこで、今回の森下さんを偉大なバレリーナとして導いた橘秋子の歴史を追ってみた。
橘秋子、本名、福田サク。
- 1907年、栃木県宇都宮の裕福な農家に生まる。
(帝国劇場が着工された年でもあり、後の夫、牧幹夫(本名:北沢 牧三郎)の養母であるスゼイ・フライ宣教師が宇都宮クリスチャン女学校を設立し、女性教育に貢献にしたのもこの年。)
※牧阿佐美の父である牧幹夫の実父は弁護士であったが生母が生後すぐ亡くなったため、宇都宮に宣教師として赴任していたアメリカ人のフライ夫妻に養子に出され、英語を日常語として育てられた。 - 1921年、栃木県女子師範学校本科に入学(現・宇都宮大学)。卒業論文は「舞踊」その後、県内の国分寺尋常高等小学校の教師を務める。
※ファッションがモダンで、しかもインテリ。モンペが主流だった当時に洋風の服を着ていて男子から人気があったらしい。 - 1930年、両親の制止を振り切り、エリアナ・パヴロワに学ぶ。
- 1931年、バレエを習い出して一年後にデビューで台湾公演に参加。
- 1933年、独立して舞踊活動を開始。橘秋子舞踊研究所を杉並区大宮前に開設。
- 1938年 夫、牧幹夫がインドに留学。(晩年病に伏していると知った牧阿佐美がインドに向かい、帰国を促すも、牧幹夫は日本に戻ることなく力尽き、1970年ボンベイ(ムンバイ)で死去する。)
- 1939年~1944年 橘秋子舞踊団(橘バレエ団)は、戦時中、北支那山西省慰問団、南支那慰問団、北満慰問団などの一員として、各地をまわる(エリアナ・パブロワは慰問先の南京で1941年に病気で急死している)。
- 1950年3月 橘バレヱ学園を創立。(会長:武者小路実篤)
※元牧阿佐美バレヱ団の武者小路有紀子(現:河村有紀子。四代目 中村梅玉の妻)は、武者小路実篤の孫であり、同バレエ団でバレリーナとして活躍した。 - 1956年、娘と共に牧阿佐美バレヱ団を結成。橘バレエ団を牧阿佐美バレヱ団に改名。
- 1971年、死去
栃木県女子師範学校は、国民の教育のために必要な女性教員を養成する学校で、全寮制による良妻賢母主義の教育だった。3年間の教師生活ののちに、踊りへの情熱が捨てきれず、退職し、エリアナの元へ。教職という当時としてはかなりいい職業についていたにも関わらず、その道を3年で辞めてバレエの道を志すとなった事で、両親からものすごい反対にあった。
しかし、意思は硬く、鎌倉のエリアナの稽古場に通い出してからは誠心誠意バレエに打ち込んだ。練習を重ね、努力も惜しまなかった。
入所三日後には、エリアナの公演に出演するなど、当時のエリアナ指導のクラシックバレエは短期間で弟子たちを独り立ちさせる傾向があったのは間違いない。今の日本のバレエ界につながる資産家の若者を集めて内弟子とする家元制度的なやり方は、このエリアナが確立したと言っていい。その根拠としては彼女自身がオリガ・サファイア(日劇ダンシングの指導者)のようなバレエの高等教育を受けておらず、バレエの裾野を日本で広げるため、生活のため、裕福な家庭の子息を多く受け入れていた。彼女自身には魅せる魅力はあったが、基本的なバレエのテクニックは乏しかったため、たとえば東勇作のようにエリアナの指導法に物足りなさを感じた者が、オリガの元に移籍するということもあったようだ。
後の夫となる2歳年下の牧幹夫とは、すでに宇都宮の学生時代に出会っているが、橘と同じ頃、牧もエリアナの門下生となっている。
エリアナの元から3年で巣立ち、1933年に橘秋子舞踊研究所を杉並区大宮前に設立。
その際には牧幹夫の養父のフライ牧師が研究所の建築資金を提供した。
そして、1934年には一人娘である牧阿佐美が生まれた。
しかし、牧はその後、1938年にインド(ボンベイ)へと旅立ち、半年で帰国予定が、戦争などの政治状況の悪化もあって結局、亡くなるまで日本に帰ることはなかった。色々な記事を調べていると、インド舞踊もあっという間に習得し、英語の他にフランス語やサンスクリット語を話すなど、語学堪能であった彼はスパイであったのかも知れないというもの見られるが、彼が実際、ボンベイで何をしていたかの詳細は分かっていない。
実際、先日取り上げた服部美智子の娘、ワトソン・繁子の夫もアメリカのCIAで働く人物であったことを結婚後、だいぶ経ってから知ったと伝記に書いてあり、牧幹夫自体もインド舞踊研究家という名のものと、スパイ活動を行っていたという記事も直ちには否定はできない。(実際、第二次世界大戦中はシンガポールで拘束されていたらしい。その後インドに戻って領事館での仕事を得て芸術活動を行なっていたらしいが詳細は不明。インドで彼にお世話をしてもらったという日本人の証言はある。)
また、牧は幼少期より、養父母の影響で自身で「ジョン・マキ・アンダーソン」と名乗り、後年インドで暮らすことになった時期にもこの名を名乗っていた。
前述の通り、橘と牧の間に阿佐美が生まれたが、クリスチャンと仏教という宗教上の違いから橘の親兄弟の反対に遭い、結婚はしていない。
それに、橘は当時、子育てよりも舞踊研究所に集中したかったらしく、結局、牧阿佐美が小学校5年生まで東京、文京区小石川(今の白山)にある畳屋に育てられ、幼少期は橘秋子が自分の本当の母親だという事を知らなかったと言う。
しかも、完全に橘に引き取られた後も「母子というより師匠と弟子の関係だった」と牧阿佐美自身が語っているが、牧がインドに立ってからの橘は虚脱状態に陥っていたらしく、バレエに打ち込むことによって彼の不在を紛らわしていたのかもしれないし、牧阿佐美本人が語っているように、「娘だからといって甘くなると、他の内弟子に示しがつかない。」と言う理由からくるものだったのかもしれない。
また、牧がインドに旅立って、一年後(牧阿佐美が5、6歳の時)には橘もインドに行こうとしていたようだが、当時の日本の軍国主義の様相がますます色を強め、それも叶わなかった。
それで、結局1970年に外務省から腸閉塞の手術の予後が悪く、危篤状態に陥っていた牧幹夫の国籍確認の連絡を受けるまで、ほぼ音信がなかったようだ。
その連絡を受け、当初は母である橘秋子の容体も良くなかったことから、インドに行くことは考えてなかったが、橘の強い勧めもあり、牧阿佐美が父をインドまで迎えに行ったと言う。
そしてインド到着後、娘の牧阿佐美がかろうじて聞き取れたのは、牧幹夫の「みんなで一緒に家に帰ろう」言葉だった。
そのインタビュー記事を目にした時、それはまるで、映画「ビルマの竪琴」で消えてしまった俳優中井貴一扮する水島上等兵に対して仲間たちが、オウムに覚えさせた「オーイ、ミズシマ、イッショニ、ニッポンヘカエロウ」と言う言葉を彷彿とさせると思った。
その後の埴生の宿(はにゅうのやど)の竪琴と隊員の合唱…涙。
牧幹夫は数十年ぶりの再会を娘と果たした翌日に息を引き取り、牧阿佐美がお骨を持って帰国した。
先にも述べた通り、その頃には橘秋子自身も容体が悪く、牧が亡くなって1年後の1971年に彼女自身も亡くなっている。
話は前後するが、
橘は、一度は戦争で畳んだバレエ学校を戦後しばらく経って1950年、中野に新たに建築。
終戦後は『戦争に負けたからバレエで勝つ』というスローガンを胸に、詩歌の会で交流を深めた武者小路実篤の支援を受け、橘秋子バレエ学園を設立した。
武者小路実篤が後援会会長を務め、バレエ学校をさらに発展させるべく、世界的ダンサーらを教師として招聘し講習会を開催する傍ら、日本人ダンサーとしての精神教育にも重点をおき、小笠原礼法、華道、茶道、座禅、滝行などの修練を取り入れた教育を行った。
※武者小路実篤は子爵家の生まれで、位階は従三位。トロストイに傾倒した文化人。志賀直哉と共に雑誌『白樺』を創刊。宮崎県に「新しき村」を創設し、理想社会の実現に向けて活動した。
先日読んだ斎藤友佳理東京バレエ団芸術監督のお母様、木村公香さんのインタビュー記事の中でも、木村公香さん自身もバレエのために茶道を学び、そこにバレエとの共通点を見出したとあるから、やはり芸事とというのはその道で繋がっているところが多くあるらしい。
それは森下洋子さんも「橘先生は厳しかった」と言う言葉と共に、茶道や華道、裁縫や料理などの教育も受け、プロとして人として、バレエ以外の教養を身につけることの大切さと言う教育方針の下、
「家では作ってもらったものをおいしくいただいていましたが、橘先生には料理も鍛えられました。料理もバレエも、きめ細かい心遣いが大切、教えていただいてとてもありがたかったです」
と、とあるインタビューで語っている。
また、バレエのレッスンに加えて、「バレエの素晴らしさを多くの人に広める」という橘秋子の方針もあり、森下さんは少女雑誌のグラビアページ撮影の仕事などでも多忙を極め、学校も休みがちになったと言うエピソードもあったようだ。
戦争を切り抜けてきた先人のバレエに対する情熱はどの人をとっても生半可なものではないが、橘秋子もまた、根底ではシングルマザーではないけれど、籍も入れず側からの目が厳しい時代に子供を1人で育て(とは言え、上にも書いたように牧阿佐美が5年生までは養母に育てられ、その後は内弟子の1人として育ったようだが…。)、女性教育者であり、情熱の人であったのが窺い知れる。
| 名前 | 生年 | 没年 | バレエ団名等 | その他の情報 |
| エリアナ・パブロワ (霧島エリ子) | 1897 | 1941 | 鎌倉 パブロワ・バレエ・スクール | 貴族?旅芸人? 慰問先の南京で死去。日本に帰化 |
| オリガ・サファイア | 1907 | 1981 | 日劇ダンシングチームのバレエ教師 | 日本人外務官の妻 ロシアのダンサー |
| 橘秋子 | 1907 | 1971 | 橘秋子舞踊研究所(橘バレエ学校の前身) | 実家、宇都宮の家格の高い農家 |
| 服部智恵子 | 1908 | 1984 | 服部・島田バレエ団 | 父、ロシアで貿易商 |
| 東勇作 | 1910 | 1971 | 東勇作バレエ団 | エリアナ→オリガに師事 |
| 牧幹夫 | 1909 | 1970 | 牧阿佐美の父、インド舞踊研究 | 実父、宇都宮で弁護士 |
| 小牧正英 | 1911 | 2006 | 小牧バレエ団(現国際バレエアカデミア) | 岩手県の富裕層の家(醤油販売商店)、画家を目指 |
| 松尾明美 | 1918 | 2013 | 松尾明美バレエ団 | 1946の全幕白鳥でオデット/オディール。渋谷区生まれ |
| 島田廣 | 1919 | 2013 | 服部・島田バレエ団 | 韓国生まれ |
| 貝谷八百子 | 1921 | 1991 | 貝谷八百子バレエ団 | 父、九州の代議士、規格外の富豪 |
| 谷桃子 | 1921 | 2015 | 谷桃子バレエ団 | 父、兵庫県で外国の商社勤務 |
| 近藤玲子 (貝谷の姪) | 1923 | 2009 | 読売ランドの 近藤玲子水中バレエ団 | 宝塚で扇千景や淡島千景を指導 |
| 松山樹子 | 1923 | 2021 | 夫、清水正夫を団長として松山バレエ団設立 | 父、兄共に競馬調教師、鹿児島出身 |
| 薄井憲二 | 1924 | 2017 | 東大出身、東勇作バレエ団所属、元日本バレエ協会会長 | 東京生まれ、戦後、4年間のシベリア抑留 |
| ワトソン繁子 (笹田繁子) | 1926 | 2003 | 服部智恵子の娘、インド舞踊家 | 戦後間もない米国に渡り、米国市民権を取得 |
| 太刀川瑠璃子 | 1927 | 2008 | スターダンサーズバレエ団 | 成蹊小学校、東京女学館卒業 |
| 大瀧愛子 | 1928 | 2007 | 大瀧愛子バレエ・アート(タカラジェンヌの指導で有名) | 1953単身渡米バレエ留学 |
| 日本バレエ協会 | 1958発足 | 1946東京バレエ団が発端 | 1957のボリショイバレエに影響され、再集結 |
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