🩰日本バレエの重鎮、薄井憲二氏の経歴から辿るバレエ家系図が作れそうなこの100年。
初代の(新国立劇場バレエ)芸術監督に島田廣さんが決まっていて。あの人が偉かったのは「バレエ団をつくったら、その団員は、女性なら大学を卒業してどこか会社に勤めて初任給をもらったときよりもちょっと多いくらいを払うようにしてください」と、それは口を酸っぱくして言ったの。だけど文化庁は始めからその気はないのに、希望だけ言わせておいてね。あれは悪い。
日本のバレエの歴史を探しまわっていて見つけたインタビュー記事の一文。
先日取り上げた服部・島田バレエ団の島田廣氏が今の新国の初代芸術監督を務めてたのは知ってる方も多いだろうが、彼が文化庁に上記のような提案をしていたのを知っていた人は多くないかもしれない。彼は日本のための日本バレエを作ろうとしていたと薄井は語っている。
彼のバレエにまつわる経歴やエピソードが多く、様々なところから文献を持ってきた結果、だいぶ長くなってしまったが、日本のバレエ界に欠かせない1人であったことをここに記しておく。
薄井憲二の幼少期
- 生まれたのは1924年東京の大森の山王一丁目。その2年前にアンナ・パブロワが来日し、「瀕死の白鳥」を披露したと言う大正時代。
- 母親は小学校からずっと女子学習院でフランス語と英語を解した
- 十七歳のとき舞踊評論家・蘆原英了のバレエ勉強会に参加
- エリアナ・パブロワ、東勇作に師事
- 敗戦後、1949年まで4年間のシベリア抑留を経験
- ロシア語にも堪能
- 東大卒
- 第四代日本バレエ協会会長
この記事を書くのに参考にしたインタビュー記事
⭐️日本バレエ界で重鎮だった薄井憲ニ氏へのインタビュー。
薄井憲二自身、東京都大森出身。
母親が学習院女子で当時の女性としてフランス語、英語ができたと言うことからも母親の家族は上流階級にあっただろうと思われる。それは、祖父が徳川幕府の家来で明治政府になってからは、日銀で勤めていたという頃からも想像に難くない。彼の父はこのインタビュー記事で本人にが語っているところによると、東京大学出身で、その後アメリカに留学し、その後、妻側の養子になった。
そんな彼は、父親と同じ東京大学に入学後、1942年から東勇作の元でバレエを習いはじめた。しかし、終戦前の1945年1月に召集令状が来てハルピンの部隊に入隊し、その後はシベリアで4年間の抑留生活を送っていたと言う。
その間、母譲りで語学に対して柔軟な脳があったようで、抑留中にロシア語を覚え、抑留生活3年目くらいからは現地で村人向けのバレエ映画が上映されると言うことで、将校に交渉し、ガリーナ・ウラノワ主演の白鳥や眠りの抜粋を村人に混じって見たというからよほどコミュニケーションがロシア語で取れるようになったのだろう。
その後は、1988年から1998年まであったロシア・バレエ・インスティテュートの所長を務めていた。
彼はインタビュー記事でもそうだが、歯に絹きせぬ物言いで語ることが多かったことがその他の彼にまつわるインタビューでも伺える例えば師匠である東勇作の師匠のはずのエリアナ・パブロワについて語るのもその一つ。
エリアナ・パブロワの「瀕死の白鳥」で印象的だったのは、腕を曲げたところを客席から見上げると、ちょっとした太さだったんです。「死んでいく白鳥がなんであんなに太いんだ」と。あとはあんまり覚えてないですよ。(中略)
また、彼は生涯に渡り東勇作を師と仰ぎ、尊敬していたが、彼について語るその語り口調は第三者的な立場からのようにも捉えられる。
そう。でも東勇作の弟子を辞めたわけじゃないです。私は東を尊敬していたから、死ぬまで辞めないし、時々相談に乗ったりもした。
質問者 東先生はやはりカリスマ性のある方だったわけですね。写真で見てもすごくきれいですし。
薄井 そうです。東勇作を見てバレエを志したという人も何人かいますよ。一九三〇年代にあんなふうにできる人はいませんでした。(中略)質問者 東宝芸能学校のこと、それから久松さんとの出会いは、戦後のことですよね。戦前の東さんはどのような経済的基盤を持たれていたのでしょう。
薄井 大倉喜七郎さんが後援者でしたから、そこから月給をもらっていたはずです。(中略)
それでも聞いた話によれば松尾さんと松山さんと二人分の月給ももらっていたそうですし、グランドピアノを貸してもらったりもしていた。そのグランドピアノを後になって久松さんが売ってしまってね。「あのピアノはどうした」と大倉家からの問い合わせがきたりして、ちょっと問題になったみたいですよ。
質問者 戦後は財閥解体なんかもあって、大倉さんからの援助もなくなったわけですね。
ここに書かれている大倉財閥というのは大倉喜七郎の父、喜八郎が築き上げた大倉財閥で、十三位男爵の地位を与えられている。現在一万円札の顔にもなっている渋沢栄一らと共に鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場などを設立したが、戦後の財閥解体により、その後は厳しい経営となり、現在大きな組織としてははかつての大倉土木が大成建設として再成されている。また、1958年からあるホテルオークラも大倉財閥の一つ。その財閥の親戚関係にあった大倉伊曽子が東京都文京区小石川に夫の大倉啓生(富田輝雄)と創設したのが大倉バレエスタジオであり、その後、Kバレエカンパニーが創設されている。
つまり、東勇作は大倉財閥からの支援を受けながらバレエ団を運営していたのだが、戦後、財閥自体の経営が厳しくなり、支援を受けられなくなってしまった。それで、彼の内縁の妻である陶芸家の久松昌子が大倉家から借りてたグランドピアノを売ってしまったという事があったらしい。
この久松昌子はかなり独特な人だったらしく、東の人間関係、特にバレエ関係者には厳しかった事が書かれている。松尾明美や松山樹子も稽古場への出入り禁止になったり、泣かされた旨が書かれている。(その後、松山樹子は夫である東大院卒内務省国土局技官の役人だった清水正夫と共に松山バレエ団を作り、その後は共産主義体制が強くなっていったと言う。)
本にも書いたけど、当時は劇場を借りるだけのお金がなくて、美術倶楽部の大広間で会をやったりする。切符の割当もあって、関係する人はそれを売らなきゃならないんだけど「バレエの人には切符を売らないでくださいね、振付を盗まれるから」なんて久松さんが言うわけです。東は黙ってそれを聞いてる。「どうしてそんなことを言えるんだろう」と私は腹が立ったけど、先生だからしょうがない、言いませんでした。(中略)
最近までずっと、そういう雰囲気はありましたね。以前、ロシア・バレエ・インスティテュートが始まる時にも、「モスクワから先生が来て教えますから」とあちこちの先生に声をかけたけど、(久松により)その手紙も破いて捨てられたりしたそうです。
また、彼は1946年の白鳥の湖でリーダーシップ的な立場だった小牧正英についても語っている。
踊りは下手だし作品はつまらなかった。エリアナ・パブロワの妹のナテジタさんなんかも怒っていました。『牧神の午後』ではニンフと牧神が追いかけっこして戯れるような場面もつくってあって。そんなのあるはずないのは誰だって知ってるのに、ひどすぎると思った。
かなりざっくばらんな話し方に驚くが、これが当時のありのままの日本のバレエ界の姿だったのだろうと想像する。
質問者 一九五八年三月十二日に日本バレエ協会が設立されますけども、そこにも今お聞きしたような厳しい流れのなかで、ここは大同団結しなければという意識が働いていたんでしょうか。
薄井 それもありました。ただ、本当のきっかけは一九五七年にボリショイ劇場が初来日したこと。それまではいろんなバレエ団がお互いに憎み合ってるから、なかなか集まったりはしなかったんですが。
質問者 では、本当に純粋に皆さんがボリショイ・バレエに感動して……。
薄井 そうです。(中略)あのときも小牧正英が主導権を獲るので大変だったんだけどね。「会長なんてものをつくっちゃダメです」と小牧が言うんです。みんなを同格にして、「会費はとるし、いろんな事業もするけれど、お金は常にゼロになるようにしましょう」と。残ったりすると問題になるから。それで設立したときには、加盟16団体で16人の理事がいたわけです。
また、1958年当時、すでにこのままじゃ日本のバレエはダメだという空気はあったと言う。
彼は皆がジリ貧になる気配があったと書いているし、日本のバレエが西洋の真似ばかりをやっていて日本のバレエではないと言う事も現在の東京バレエ団がベジャール作品を提げて海外公演を行った際の欧州の批評を引用している。
つまり、フランスにはフランススタイル、ロシアにはロシアスタイル、イギリスにはイギリスのスタイルのバレエがあるのに対し、日本は?
だから私は、基礎的なバレエの知識も固まってきたし、新しい刺激も加わった、この先は公的な援助で大きなお金が動かないと日本のバレエは変わっていかないだろうというようなことを考えていました。
今はそういうものが教えられなくて、バレエはスポーツにみたいになっちゃったから面白くないわけです。
質問者 現在のバレエは「スポーツ」のようになってしまったとさきほどおっしゃいましたが、その一方で世界的なコンクールでたくさんの入賞者を出すなど、日本のバレエの状況は好転した部分もあるのではないでしょうか。
薄井 とにかく裾野は広がりましたね。それは悪いことではないと思います。バレエで食べていける人が増えたわけでしょう。舞台には出ないけど、子どもを教えたら生活できる。だから、もしプロのバレリーナになれなくても先生として生活できるなら、とバレエを志す人も増えるかもしれないし、男の踊り手は熊川哲也を観て「自分もああなればスターになれるんだ」と思うかもしれない。熊川よりちょっと前、ヌレエフが現れてしばらく経ったあたりから、男のスターで切符が売れるようになってきたんですよ。それもあって、男がバレエを志すということにも違和感がなくなってきましたね。これはいいことです。ただ、私はバレエ原理主義だから、やり方がまずいなと思うし、困っていることもあるけど(笑)。
彼がこう答えているのは今から10年以上前の2014年。
この10数年で確かにバレエ人口はさらに増えた。うまくいっているバレエ講師達もいる。しかし、薄井が語る、「舞台には出ないけど、子どもを教えたら生活できる」と言う状況はすでに通り越してしまって次のフェーズを考えなければならないように思う。
| 名前 | 生年 | 没年 | バレエ団名等 | その他の情報 |
| エリアナ・パブロワ (霧島エリ子) | 1897 | 1941 | 鎌倉 パブロワ・バレエ・スクール | 貴族?旅芸人? 慰問先の南京で死去。日本に帰化 |
| オリガ・サファイア | 1907 | 1981 | 日劇ダンシングチームのバレエ教師 | 日本人外務官の妻 ロシアのダンサー |
| 橘秋子 | 1907 | 1971 | 橘秋子舞踊研究所(橘バレエ学校の前身) | 実家、宇都宮の家格の高い農家 |
| 服部智恵子 | 1908 | 1984 | 服部・島田バレエ団 | 父、ロシアで貿易商 |
| 東勇作 | 1910 | 1971 | 東勇作バレエ団 | エリアナ→オリガに師事 |
| 牧幹夫 | 1909 | 1970 | 牧阿佐美の父、インド舞踊研究 | 実父、宇都宮で弁護士 |
| 小牧正英 | 1911 | 2006 | 小牧バレエ団(現国際バレエアカデミア) | 岩手県の富裕層の家(醤油販売商店)、画家を目指 |
| 松尾明美 | 1918 | 2013 | 松尾明美バレエ団 | 1946の全幕白鳥でオデット/オディール。渋谷区生まれ |
| 島田廣 | 1919 | 2013 | 服部・島田バレエ団 | 韓国生まれ |
| 貝谷八百子 | 1921 | 1991 | 貝谷八百子バレエ団 | 父、九州の代議士、規格外の富豪 |
| 谷桃子 | 1921 | 2015 | 谷桃子バレエ団 | 父、兵庫県で外国の商社勤務 |
| 近藤玲子 (貝谷の姪) | 1923 | 2009 | 読売ランドの 近藤玲子水中バレエ団 | 宝塚で扇千景や淡島千景を指導 |
| 松山樹子 | 1923 | 2021 | 夫、清水正夫を団長として松山バレエ団設立 | 父、兄共に競馬調教師、鹿児島出身 |
| 薄井憲二 | 1924 | 2017 | 東大出身、東勇作バレエ団所属、元日本バレエ協会会長 | 東京生まれ、戦後、4年間のシベリア抑留 |
| 太刀川瑠璃子 | 1927 | 2008 | スターダンサーズバレエ団 | 成蹊小学校、東京女学館卒業 |
| 大瀧愛子 | 1928 | 2007 | 大瀧愛子バレエ・アート(タカラジェンヌの指導で有名) | 1953単身渡米バレエ留学 |
| 日本バレエ協会 | 1958発足 | 1946東京バレエ団が発端 | 1957のボリショイバレエに影響され、再集結 |
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