🩰日本の能と西洋のバレエ。異なる国、時代の政府の庇護で発展した伝統文化。
最終論文が佳境になってきて、現実逃避からブログを書いている。
この2年間、フランスの大学の舞踊科で学んだ意義は私にとってはとても大きかった。新しい概念の連続だったし、考えさせられる事も多かった。
なぜ、クラシックバレエが日本で「収入が得られる職業」となり得ないのか、それと向き合うことの意義は大きかった。
日本には室町時代から続く日本の伝統芸能である能があり、それが国の伝統芸術として保護されている。
現在のフランスのクラシックバレエはここフランスでは下火となりながらも、ルイ14世が1661年に作った王立舞踊アカデミーを元に発展し、パリ・オペラ座バレエ学校やバレエ団となって国から守られている。
ここでのパリ・オペラ座バレエダンサーは日本の能や歌舞伎の舞台に立つ方々が「人間国宝」となるように、「エトワール」の地位に辿り着くことで、やはり、一般人が到達できない聖域に到達した者として扱われる。
人間国宝の方々に多くの日本人が尊敬の念を抱くように、パリ・オペラ座バレエ団エトワールも尊敬の念を持って迎え入れられるが、日本のクラシックバレエダンサーの「プリンシパル」との意味合いが違う。
よく日本のバレエの歴史はフランスほど長い歴史がないから、収入が得られるようにならない旨の発言をしている人もいるけれど、イギリスは日本とほぼ同時期にバレエが輸入されている。それでも、現在は仕事として成立し、「プリンシパル」ダンサーともなれば、フランスのエトワール同様、尊敬される仕事となる。
それは吉田都新国立芸術劇場バレエ監督が引退前の2007年に紫綬褒章と大英帝国勲章を受賞していることからもそれがの高みである事が分かる。
それぞれの国において美しいプロパガンダとしての利用法があり、昨今も多くの国が各々の「ダンス」を利用したプロパガンダを展開しているのは周知の沙汰だろう。
それにより国力を上げる介助にもなる。
1900年代前半、日本にバレエが輸入された頃、イギリスも国としてロシアやフランスから多くのゲストダンサーを招いていた事実がある。
だから、日本においてのクラシックバレエの歴史がないからと言うのは言い訳にすぎず、それは日本バレエの先人達や国がクラシックバレエを西洋と同じ見方をすることなく、一端の高額な習い事ととしての認識だったからに他ならないという見解をしているのと同じである。
個人のバレエ団が私費を持って乱立する形となっていったのが現在の姿であることの肯定であり、それが今後、未来の日本のバレエ界において継続可能な構造なのかをよく考えるべきだと思う。
そして、この「プリンシパル」と言う言葉、先日もブログで書いていたようにロゴスの捉え方が変わると、その意味合いも異なる。日本のバレエ団におけるプリンシパルと英国のそれとではまた捉え方が違う。
バレエ団の最高峰の称号として同じように使われているが、「国」を定義した時にその重みが異なる。
日本の場合、イギリスやフランスのその栄光とは異なり、たとえプリンシパルであっても退職金が保証されているわけでもなく、老後年金が確約されているわけでもない。社会福祉上の保障は各バレエ団の運営に一任され、バレエ団を辞めて「プリンシパル」でなくなった時には個人事業主のフリーのダンサーとなる。つまり、直近まで所属したバレエ団(そのバレエ団に福利厚生等のシステムがあればの話だが…)が保証してくれない限り、自ら国民健康保険に加入し、自ら国民年金を支払う必要がある。
「プリンシパル」や「エトワール」の重みは国ごとに違うが、日本だとその重みを軽いニュアンスへと持ち上げているように思える。
それはすなわち、三段法のレトリックの論理で「前提」となる「ロゴス」解釈をあたかもイギリスの「プリンシパル」やパリ・オペラ座バレエの「エトワール」と同様であるかのように持ち上げた第一段階の共通認識を踏まえた上で、第二段階で独自の解釈を施し、説得し、共感させるような構造を作っている。
第三段階での人々の感情に訴えた支配においては、第一段階でイギリスやフランスと同じ枠組みであるという概念を落とし込んでいるので、ある程度統一された感覚を持つ我々の認識の中に組み込むのは容易である。
第一段階、第二段階でその論理がたとえ、日本の一般社会、資本主義の認識から離れていたとしても、「芸術の世界はこうである」と言う、一般人の感覚が入る隙間を与えなければ、第三段階の「人々の感情に訴える」のは全ての芸術家の共通認識として知れ渡るため異論は許されない状態へと持っていく事が可能である。
もちろん、私には日本の能や歌舞伎という伝統を差し置いて西洋の舞踊を優先せよ、という考えは微塵にもないが、安易に
「日本バレエの歴史が浅いから、バレエで収入を得て生活することは難しい。」
という言い訳にも近い、誤った理解を広めるバレエダンサーが増えるのであれば、逆にこれ以上日本でバレエを広めない方がいいのではないか?という思いも滾ってくる。
すなわち、それは未来の子供のために。
現在の日本社会において最低限の収入が得られないのを肯定し続けるのであれば、それは未来の子供達にとって過酷な未来でしかない。
それならば、一般にもっと能の教室や日本舞踊の教室を普及させ、日本国民のアイデンティティ、伝統芸能としての重みを広めていかないとならないと思うが、資本主義の構造の日本社会で月謝を払う側の需要なしでは、たとえ日本古来の伝統芸能であっても個々の教室に対する国の援助なしでは運営、継続は不可能だろう。
しかも、現在の日本政府には個人の伝統芸能の舞を教える教室(能や日本舞踊など)をサポートする気概は見受けられない。
また、国内インターナショナルスクール等で行われる日本文化に触れるお祭り…
例えば、七夕祭り、浴衣を着ての夏祭り及び盆踊り、節分の豆まき、ひな祭りに際した祭りなどは公立の小学校、中学校では行われていない。
※もちろん全てのインターナショナルスクールで行われているわけではない事は追記する。
日本の古き良き慣習は薄れ行く一方で、どんと焼きなど今学校行事やPTA行事として存在する行事なども削られようとしており、日本国内の子供達が親の努力なしでは日本文化に触れる機会は減ってきている。
親が日本文化に全く興味を持たなければ、洋楽、Kポップ、ヒップホップしか知らない子も多いだろう。
その良し悪しは家庭基準で判断するものであり、他人が口出しできるものではない事は前提として。
そして今ある確かな事実として、西洋のものであるクラシックバレエを日本国内のバレエ教室の個々の先生たちが彼らの絶え間ない努力により、全国隅々、結構な田舎にまで普及している状況を作り上げた。それゆえの世界一とも言われるバレエ教室数である。
実際、これは現在私の住むフランスには見られない構造である。
私の住む小さな村やその周辺の村々を見てもバレエ教室はほとんど見られず、その代わりに「ダンス」教室が点在しているに留まる。
フランスにおいて「クラシックバレエ」は古典舞踊と書き、殊に田舎では古臭いものとして思われがちである。それよりももっとポップで明るい現代風の曲に合わせたもの、そう言うダンスの方が人気がある。
だから、その「ダンス」教室のダンスが何なのかははっきり言って不明であるが、基本的にはコンテンポラリーという名目のところがほとんどだ。
時代の流れとともに流行り廃りがあり、今のフランスではコンテンポラリーという名のダンス、日本では2018年ほどまではクラシックバレエ、それ以降はKポップダンスやヒップホップの波に飲まれようとしている。
近年、フランスでもKポップダンスの人気が出てはいるが教室自体は多くはない。
私は、今ここフランスで舞踊にまつわる様々なことを吸収しているが、最終目的は変わってはいない。
日本のプロのバレエダンサーを目指す子達の学業とバレエの両立。
そして、
日本のピラミッドの頂点である才能あるクラシックバレエダンサー達(もしくはピラミッドの頂点のダンサーが集まったようなバレエ団全員)がそれを職業として、安定した収入を得られるように、福利厚生の元、安定した暮らしを提供したい。
そこに尽きる。





